045:御社のメディアにて

まだ自由の意味を理解していなかったクソガキ時代、自由を求めて旅をしていたはずなのに、宿泊者全員が決まった時間に食事をすることを強要されるとっても不自由な宿にばかり宿泊していた。つまるところ、自由っぽいことに憧れていただけで、真の自由なんて欲していなかったんだろうね。もしくは本物の自由が怖かったので、はぐれそうになる手前でルールに縛られて安堵していたのか。どちらにせよ、一人用テントを張ったり駅舎で寝泊まりしているような真の自由人たちと比べたら限りなく不自由な旅に満足していた若者たちのバイブルだったのが「とほ」だった。
男女別相部屋。今でいうところのドミトリースタイルの宿を紹介する小冊子で、礼文島の星観荘を除くと、宿主はすべからく道外からの移住者で、宿泊客もほぼ内地からだ。今から30年以上前の話なので、「今はそんなことないよ。食事の時間だって自由だよ」とか反論されちゃいそうだけど、30年以上前に100泊以上した経験から書かせてもらうと、「ミーティング」では「地元の人たちは地元の自然の魅力に全く気付いていない」などと公言したり、そのくせ地域の歴史について質問すると全く勉強していないようなバカな宿主が結構いたのだよ。その度にカチンときては喧嘩になったりした。実際、地域に溶け込めないどころか嫌われている宿主も多かった。そりゃそうさ、地元の人間は感性が悪いとか言ってりゃ嫌われるでしょ。唯一、礼文島の星観荘の彦さんだけが地元出身者だったので彦さんとは男二人で飲み歩くぐらいの友情が育まれたけど、ほかの宿主となると、今でも許せないバカが何人かいたりする。恨みは年齢を重ねるほどに薄れるのではなく深くなるんですと。膝を打つ名言なり。
※調べたら、バカたちの宿はすべてつぶれていた。ざまあないぜ。
その後、何代も前からその土地に根付いて暮らしている人たちが営む小さな温泉宿と出会い、食事の時間を気にすることなく夕間暮れの空をいつまでも眺めている自由を手に入れたり、地域が抱える昔からの問題や歴史を教えてもらうことで旅に深みを感じることができるようになったおいらは、あれほど利用していた「とほ宿」に止宿することは二度となかった。無意識ながらも当然の成り行きだろうね。
なんで、突然、そんな話をしているのかというと、送られてきたからなのだよ。「とほ」の本が(^_^.)。毎年この時期になると送られてくるんよ。「是非とも御社のメディアでご紹介いただきたく」と。御社のメディアだったのか、いい旅は。で、封を開いてみたら、おおっ。今回のはひと味違うぞ。「宿主に会いに行く旅」ということで、53宿の宿主たちの写真入りでないの。いい企画だぞ。ってんで、頁を開いてみると、なるほどね。とほ宿もだいぶ淘汰されたようで、星観荘(礼文島)の彦さんをはじめ、あしたの城(サロベツ原野に咲くエゾカンゾウだかエゾキスゲだかが美味いと言われて食べた)の川上さんとか、あら鷲(網走の能取岬でクロカンをしたぞ)の宅見さんとか、アニマの里(氷結した網走湖でスノーモビルで引っ張るパラグライダーみたいなのをやっていた)の永田さんとか、知っている顔はわすがで、あとは35年以内の人が多いみたい。佐呂間のさろまにあんとか、浜中の霧多布里とかえとぴりか村とか、もうとっくにないんだね。初めて中国人の美少女と話したのがさろまにあんだったんだよなぁ。ミスパンプキンに出れとか出たくないとかで宿主と喧嘩していたのを微笑ましく眺めていたもんさ。
あれれ。ボンズホーム(知床ウトロ)のボンさんも載っているぞ。とほ宿だったっけ? 関西人だからいいのか。わっ。ミルクロード(中標津)の鈴木靖くん、いや鈴木靖さんか、どっちだ、老けたぞ。おいらが泊まった頃は20代の若者だったのに。同じとほ宿の民宿地平線で陰湿で最低な宿主と大喧嘩をして、ミルクロードに避難したような記憶があるけど違ったかな。
35年以上続けている宿主はえらいよ。もはや移住者とは呼べないもんね。立派な地元民さ。というわけで、とほの本が本体400円+税で発売されたので、10代とか20代前半の時のあざらし同様「まだ本当の自由を背負えきれないクソガキ」は買うべし。旅に出るべし。そして20代後半になったらとほ宿を卒業して、正しい温泉を巡る旅に出るべし。それが成長ってもんだぜ。んじゃね。バイビー。
あっ。今回も最後に野鳥の動画をプレゼントするんだった。まだバイビーじゃなかったよ。3月18日に白糠で撮影したタンチョウです。横着して外に出ないで車の中から撮影しているので、途中で車の窓枠が邪魔になるけど、まあ、そういった細かいことは気にしないで見ておくれよ。