017:大コンプレックス!

突然だけど大根の話です。大根の話と言うとだいたいの人があまり興味ないなぁとか、あー大根ね、はいはい勝手に言ってなさいといった具合にあまり自分には関係のない話だと思うでしょう。
しかし考えてみて欲しい。あの色白ですらっとして、透明感のある感じ。見た目は素朴なのに、しっかりとした存在感。触れるとどっきりするほどひやりとしているけれど、確かな重厚さを持って、全面的に安心感のある佇まい。
その透明感と存在感を併せ持つ根っこの部分に目を奪われがちだが、実力のある葉部分も忘れてはいけない。まるで出会った頃は冷たくてなんだこいつ、気取りやがって。なんて思っていたけれど傍にいるうちに芯の強さや色々な表情を知り、どんどん惹かれていって今ではキミなしのぼくなんてぼくじゃないよウフフ的な架空の恋の思い出が思わず脳裏に浮かんでしまわないですか?
大根のことを考えるとぼくは少しおかしくなってしまう。世の中には色々なコンプレックスがあるけど、もしかしたらぼくは大根コンプレックス、略してダイコンなのかもしれない。大根への目覚め(というのかな)は早く、小学生の時に筑前煮や鶏のうま煮などが給食に出た際、皆タケノコや鶏肉を奪い合っていたけど、ぼくはやわらかく煮込まれた半透明でしょうゆ色の大根があれば他に何も求めなかった。
学生時代に同学年らが周りから言うまでもなくバカ丸出しな顔をして、やや太めの女生徒に対し、やーい大根足大根足!などとからかっている時にも、ぼくは一人大根のような足があればそれはこの世でそうそうない美しい足であろう、わかっていないやつらよ……などとニヒルな顔付きで窓の外を眺めたりしていた。
酒の味を覚え始めた頃、友人らと行った居酒屋で頼んだホッケの開きに、大根おろしがあまりにないがしろ的みじめさでポツンと皿の隅で横たわっていた時には大根を愛するものを代表して大根おろしの大切さや必要さや、増量を訴えたが、あまり相手にされなかった。安かろうそんなに悪くなかろうの安居酒屋と、とにかく味より量よりサケ!という貧乏学生の組み合わせに、焼き魚の添え物である大根おろしの偉大さを主張するには早過ぎたのだ。
ぼくと大根の周りにはいつも少し悲しみややるせなさや、時には疎外感があった。
しかし野菜界広しといえども、大根ほどオールマイティーな分野で持ち味を発揮して活躍の場が広い野菜というのはそうないだろう。例をあげるまでもないと思うけれど一応大根の主な活躍を挙げていくと、まず煮物関係に始まり、生でポリポリのサラダ関係。刺身なんて大根のツマがないとただ皿に乗った魚の死体の切れっぱしじゃないかという意見もある。それからたくあんに代表される漬物関係。大根がこの世からなくなってしまったら田舎のババアの半分は生きがいを失ってしまうだろう。
あと忘れてはいけないのが葉っぱの実力。そのままごま油で炒めても実に美味しいし、変化球でしらすと炒めて仕上げに金ゴマぱらぱらのお手製ふりかけなんてのはごはんのお供に持って来いだ。たくあんも好きだけど一緒に漬けてくたっとしおれた葉っぱのほうが好きだったなぁ、ばあちゃん元気かなぁ…という人も少なくないはずだ。
そしてなにより大根おろしというオンリーワンな必殺技が大根おろしにはある。しかし、悲しいかな、野菜界の中でその実力の割りに不遇ともいえる時代を送っているのではあるまいか?と思うのである。葉っぱは邪魔者とでも言いたげにざんぎり頭の大根が並ぶスーパーの野菜売り場や、見切り品でしおれた大根に直接割引シールが貼られているのを目にしたときなんかは特にそう思う。
みんなもう少し大根のことを考えて大事にしてやってほしい。もっと大根にドキドキして欲しい。大根のないおでん、大根おろしのないさんまの塩焼き。刺身なんかはマグロが天然ですよとか大トロですよとエラソーにしたところで、まず大根というツマがないとただの赤い肉の切り身が皿に横たわっているだけのものに成り下がってしまうのだ。はっきり言って不気味である。
●現実的な問題として、たまたま近所の釣りが趣味のおっさんが魚を大量にくれてとりあえず塩焼きにしてから、あっ大根があれば!とか、なんか今日は冷たい麺にするか、そばがいいな、あっ、なめことわかめが冷蔵庫にあったからちょうどいいわ、と出来上がってから大根、大根おろしがあれば…という状況と言うのは容易に想像が付きますね。その時誰もが大根のことを思いそして悔やみ、普段の大根への配慮のなさを嘆くことになるのである。
日本人と大根の付き合いは長いけど、ぼーっとしているうちに大根は愛想をつかし目の前から消えてしまうかもしれないのだ。なぜそんなに大根の話をするのか、と言われたら今日大根のタネを植えて、そのうち大根に困らなくなるであろうことと無関係ではないだろう。
あぁ大根があればというような状況とはオサラバよ、と思えば今までのぼくと大根の悲しい思い出もまたいいものだなぁと思えるのである。〈2019年6月18日記〉