016:初夏の愉しみ

春が来たなぁと思って、あたたかくなーれ、なんて思っていたらとんでもない暑さがやってきたのも懐かしい今日この頃。つい先日まで枯れ草で覆われていた道路際や土手や原っぱがもうにょきにょき伸びてきた雑草で茂っている。
気が付くと早くも野菜が採れ始め、茶色一色だった畑も青々として、風が吹く度に伸びた葉をうねらせ色を変える。勾配のある斜面に織りなす景色。日差しと中腰姿勢にうんざりして背伸びをしてみると、おおなんと美しいのだ、わが美瑛は。この景色を見に野を超え海を越え観光にやってくる人の気持ちがよくわかるなぁ。
しかし現実とは儚くも厳しく生々しいもので、隣を見ると腰の曲がったおばあちゃんと国籍以外一切不明なネパール人が不敵な笑みで鎌を振り回したりしている。
最近ぼくはおばあちゃんという存在に激しく興味を示していて、勤労青年としての立場から、日々おばあちゃんらとはつらつとコミュニケーションしつつ一緒に働いている。思えばぼくの住んでいる地域にはおばあちゃんが多い。日本全国どこでもそうだよ、と言われたら反論する余地はないのだけれど、だからこそおばあちゃんを知り、交流を図るということは今の日本国に真に必要なことではあるまいかと、ぼくはそう考えているわけですね。
ではおじいちゃんはどうなる!という声もあろうが、今日はおばあちゃんの話なのである。
前回に引き続きアスパラ畑での話で、当然外仕事なので老若男女問わず疲れる仕事である。日中と夜中の気温の差がおいしい野菜を育てるというけれど、おばあちゃんにとって朝晩の冷え込みや日中の暑さは死活問題に値するようで、野菜を取るかおばあちゃんの健康を取るか。というようなことを考えたりしてしまう。考えたところで当然どうしようもないので、夜は暖かくして寝てね、昼は涼しい恰好でね、どうか長生きしてね、と祈ることしかぼくにできることはない。といっても畑に出てくるおばあちゃんと言うのは口も体も達者なので、体の不調や節々の衰えを話すということは元気な証拠なんだな、と最近は思うようになってきた。
日照りの天候から一転、情緒不安定気味に不規則な雨が降るような日々が続いているが、おばあちゃんたちは風向きや雲の形、関節の軋み具合などから天気予報よりも正確に空の移り変わりを言い当てたりする。そういう時ぼくは、適わないなぁすごいなぁ、年の功だなぁと素直に感心したりする。そして休憩時間になると、先程までのやや苦し気で重く鈍い動きが全部うそでーす、というような感じで茂みに分け入り山菜を採集するメリハリなんかを見ると、う~ん参りましたと思ってしまう。
けっこう急な傾斜の畑で台車をひぃひぃと押していたおばあちゃんが断崖絶壁の斜面を軽やかに弾むように駆け下りて両手にウドやワラビを山盛り持って帰って来た時はなんだか人類の神秘さえ感じてしまった。これが一年で一番楽しみで、と背中がアルファベットのエルをひっくり返したように曲がったおばあちゃんは言った。
誰かエライ人が「隣人を愛せ」と言ったように、ともすれば反抗期の少年よりも問題とされるおじいちゃんおばあちゃんのことを知ることができたなら、それは地域社会にとって大きな一歩なのではないか。それに単純に今は反抗期の少年よりも、高齢者のほうがはるかに多い。実際日本の食糧基地と呼ばれる北海道の一次産業の場で働く若者は少数派である。悲しいが事実なのである。
そんなことは知らないけどね、とうそぶいて仕事の合間に山菜取りに精を出す逆エル字型のおばあちゃんがとても気高く思える。