047:根室国喰奴記(ねむろのくにくうどき)納沙布岬編byどぶろく稔

納沙布岬到着は10:50。山本コウタローさんの『岬めぐり』を口ずさみながらのゴールだった。今旅の最長到達地点であり、人生で最も東へ来た事にも成る。LED以前のクリスマスツリーの麦球みたいに真っ白い灯台は中々にファットだ。その太っちょぶりが視界を遮り、岬の突端感を得られないのが少しばかり残念に思う。明治7年建築、木造八角形の先代灯台(昭和5年に改築)は洋式としては道内最初に建てられた物であったと云う。
それにしても好い天気! まばゆい海には磯船が浮かび、竿を差し入れ昆布を採っている。半月板損傷で入院した時の松葉杖仲間で、日高昆布を生業とする襟裳の親方は「あのヒドだじ、ながぁ昆布ぅだがら、おれだじどぉ、どぉぐ(道具)も採りがだもぢがうんだぁ」と教えてくれたのを思い出した。
この辺りで採れるのは長昆布と厚葉昆布との事ですが、隣り合う羅臼(昆布)とも日高(昆布)とも別の種類なんですから不思議ですね。なお道内には7種類もの昆布が生息しているそうです。
観光スポット目白押しの広場において、こち亀第一巻一話【始末書の両さんの巻】で、両さんと中川が転属と成ったノサップ岬派出所(納沙布駐在所)が、実際に在るのが嬉しかった。根室警察署さんには「只今両さん警ら中」とか顔ハメ看板でも掲げて欲しいですね。ちょうど交番裏手の『根室市北方領土資料館』は巨大なトド君が出迎えてくれて[日本本土四極到達証明書]を貰える。
望洋の岬公園を進み、間近で見る『四島のかけ橋』の巨大さにはビックリした。大きめの雲梯(うんてい)ほどのサイズと勝手な思い込みをしていたのだった。因みに赤茶けた材質は北海道百年記念塔と同じく、コールテン鋼(耐候性鋼)という錆びた鋼材で造られています。同素材を使った10年先輩の百年記念塔の方は、老朽化のために解体が決まったとの報道もあり、寂しい限りです。
[北方領土視察証明書]を発行してくれる『北方館望郷の家』には無料の望遠鏡が設置されている。この日は貝殻島灯台の傾いている様子や、水晶島に建つロシア正教会の金に輝く十字架などもしっかりと望めた。件の教会は2005年11月のプーチン大統領来日に合わせるように、僅か一週間ほどで建ち上げた建物で、定住者も居らず、国境警備隊と水産加工の島である事から、日本へ見せつけるためだと考えられるそうだ。「コラ! ヤポンスキー!  見ろやこの十字架、ピッカピカやろ、ピッカピカやろ」ってとこですか。どうも古今東西、宗教を担ぎ出すってぇのが常套手段なんですなぁ。萬に一つロシアの肩を持つとすれば「2010年大晦日の酒盛りで、メチルアルコールを飲んだ4人が中毒死している」ので供養のためとかね・・・。
かく云う『国泰寺』も、享和2年(1802年)箱館奉行が「蝦夷地で和人が死んだ時に埋葬する墓所を建て、墓守する僧侶を置きたい」と寺社奉行に申請したのが建立に至るスタートだったので、色んな意味合いが有るのかも知れません・・・。それにしても・・・なにもメチルアルコール呑まなくたって・・戦後闇市の『バクダン』だぜぇ。そう考えりゃまあロシア的かぁ。
そして北方館と対面する形で『寛政の蜂起和人殉難墓碑』が建てられています。これは『クナシリ・メナシの戦い』で落命した和人を弔う為に、故人所縁の松前か大畑湊(青森県)の関係者が文化9年(1812年)4月迄に造ったお墓です。 当初、アイヌ民族みずからが行っていた松前藩家臣らとの《物々交換的な交易》は藩より漁場(場所)の交易権を与えられた場所請負人によって《アイヌ民族に報酬を与え労働力として雇用する形》に変容していった。漁場での支配人、番人、通辞らの暴力と脅迫による酷使、メノコに対する非道な扱いは激烈を極め、アイヌ民族の我慢も限界に達していた。寛政元年(1789年)クナシリ場所の総首長サンキチ、首長マメキリの妻が相次いで急死し、日頃「働きの悪いアイヌは殺してしまい、和人をたくさん連れて来て和人地に変えてしまうぞ」などと脅されていたため、原因を和人による毒殺と考えた彼らは武装蜂起し、松前藩士、船頭、水主をも含む和人71人を殺害するに至った。規模はクナシリ場所(国後島内5ヶ所22人)、キイタップ場所(メナシの中でも野付半島から知床半島の付け根に渡る6ヶ所36人)、チウルイ沖停泊の大通丸船内(11人)の地域に亘った。これが『クナシリ・メナシの戦い』のあらましである。
碑には「この地の兇悪なアイヌが徒党を組んで武士平民をいきなり殺した」と云う意味の漢文が彫られています。如何にも和人目線ですね。しかし、仏様には憚られますが蜂起の動機を作った人物も少なからず故人に含まれているのも忘れてはならない事実なのです。
この石碑は実に数奇な運命を辿っておりまして、『根室市史』によると、《大正元年十二月中村某が珸瑤瑁沖に出漁中一基の石碑が漁網にかかったので、これを引きあげて見ると高さ四尺、横二尺、厚さ一尺の花崗岩の碑であった。・・久しく海底にあった海藻類なども付着し文字も磨滅して、わずかに表面の題目を読み得るに過ぎなかった。そこでよくよく払拭して背面の碑文を見ると・・・云々》とあり、 北構保男さんの著作『寛政国後蝦夷の乱』には、《裏面に【寛政元年巳酉夏五月、此の地の兇悪なアイヌ党を結び賊事を為す。起るや不意にして武士平民の害に遭う者総て七十一人なり。姓名、記録は別に官舎に在り、慈に合せ葬って石を建つ 文化九年の歳壬申に在るの四月建つ】と記されたこの墓碑は、大正末年ごろ付近の通称又十浜の海岸に沈んでいたものを部落の青年団が引き揚げ、大高伝之助氏らの尽力で現在の位置を選び台座を新調、建立したものと云う》。ちなみに現在の位置とは珸瑤瑁の墓地入り口だったようです。その後、石碑は昭和42年、根室市文化財に指定され、昭和43年に納沙布岬の現在地に移設されたとの事です。
それでは何故海中に眠っていたのか? 北構さんは羽太正養著『休明光記』等の史料を辿り《幕府の蝦夷地直轄に際し造られた船舶は二六隻》で、《関係船四三隻のうち遭難破行方不明船が二六隻》、《その中の一隻、恒虎丸(八七〇石積)は文化九年(1812年)根室にて破船とあり、墓碑の制作年代とも一致するので積送中海没した可能性が少なくない》と推察されています。北構さんは少年時代に根室の弁天島で[捕鯨彫刻図]の刻まれた『管状骨製針入れ』を発見され、後に金田一京助博士に師事し考古学を修めた方です。オホーツク文化人がアホウドリの骨にクジラを捕る様子を描いた、この針入れは歴史好きには堪らない逸品です。
今回気が付いたのですが、根室市史に掲載されている墓石の写真と現在の物を見比べると、別の石碑と思われるのですが・・・。アングルが異なるとは云え、棹石の文字と余白のバランスが違い過ぎる・・・。 根室近郊にお住いのどなたか根室市史と同アングルで撮ってみて下され。そして『なんでもどうぞ!』コーナーへのアップお待ちしてしております。