003: 寮生活者に捧げるワインディングロード

工場というのは閉塞的な空間でしょう?
 と、工場で働いたことのない人は思うだろう。
 大体にして工場というところは「関係者以外立入禁止」「衛生管理のためこの先立入禁止」「あぶないのでこの先立入禁止」といった具合に、基本的に関係のない人は「立入禁止」という根本的に締め出し体質というか、部外者拒否、わしらの世界だかんね、という空気が濃く漂っている所だと思う。
 出稼ぎ仕事でその「関係者」となり、工場内を大手を振って歩けるようになった今現在でも、「この先関係者以外立ち入り禁止」なんてステッカーがドアにデカデカと貼られていると、慣れないぼくなんかはその度に複雑なウスラ笑いを浮かべつつ「バーカ」なんて心の中で呟いたりしている。
 しかし、ここではそれが当たり前で、多分工場に長く勤めている人は、そんなところにステッカーあったっけな?と思ったりしている人が大半なのである。
そして、工場というのは基本的に壁に囲まれているので、現実問題として外の景色を見ることが少ない。
 のびのびと青空の下、風が吹き抜け、太陽もポカポカ陽気に笑い、木陰に集まり休憩を……と、まぁ、これはいかにもステレオタイプで牧歌的な光景だけれど、そういうのとは真逆な、壁です壁です囲いです、とにかく外は見えません、窓は高い屋根の上なので見上げても日が差しているだけで外の景色は見えません。あぁ、今日は何曜日で、今は何時でしょう。疲れた顔のオジさんたちよ、どうか教えてくださいな……という光景が工場での日常なのである。
大義名分として、社会を支えているのはぼく達わたし達の生産するモノですからね。我々が生産しなければ社会で困る人達がたくさんいるのです。と冴えないメガネの役職だけ勤続年数に応じて上がったような面白味のない課長あたりが言ったところで、さらにその末端構成員であるぼくら季節労働者にはピンとこないし、社会というものとは果たしてなんであったか……と思うのが壁に囲まれた中で考える根本的な疑問だったりする。
 ましてや、同じ町から通っています、とか、わりと近くに住んでいます、という人なら「働く所」としての工場と割り切ることもできるだろうけど、ぼくらのような入寮している「生まれた所を離れて」出稼ぎに来ている人間には色々思う所や考えることがあるのだ。
寮に入る、ということについても、ぼくは今どういう事だろうか?と考えている。
 思えば2~3年前、都会で会社員をしていた時には自分が季節労働者として工場を転々とし、住まいを離れて宿舎生活を送るなんてことは全く思っていなかった。
 街で仕事をして金を貰って生活するのと、工場の寮に入って金を貰って生活するのでは大きく違うものだなぁと何となく思っている。仕事内容も生活環境もそうだけれど、一番大きいのはやっぱり仕事を終えて家に帰る、ということがあるかないかだろう。
街で働いていた時だって、明るい日差しはぼくには降り注いでいなかったけど、家路にある路地裏の居酒屋や表通りのチェーン店の飯屋に群がる人たちを見て、なんとなしに心救われたりしていたものだ。 社会の中の一員という感覚があったんだと思う。
しかし工場で勤めている時は、朝(あるいは夜に)寮を出て、工場の無機質なタイムカードをガッチャンとして、勤務時間が終わるとまたタイムカードをガッチャンとして敷地内の寮へ戻り(帰るという感覚ではなく、ただ《戻る》という感覚)明日の出勤時間を待つという感じなので、何となしにおれは社会から取り残されて、置き去りにされて、一生変わらぬ生活が続くのではないかという様な漠然とした不安が毎日毎日心を締めつけるのである。「自分らしさ」なんて野暮ったい言葉が自分から遠く遠く離れて二度と取り戻せないような感覚に陥る。
そんな感覚はぼくだけのものじゃないみたいで、寮内の通路や洗たく場で会う人たちとも、それとなく日々の不満やつまらなさや、どうしようもない退屈について話すことがある。
 彼らの話を聞いたりしていると、結局この誰にでも常に襲いかかる「現実」というものに対してぼくらがとれる対処法というのは、「諦めるか」、「受け入れるか」、「立ち向かうか」、しかないみたいだ。
みんなみーんな人は幸せになりたいはずだ。不幸を望んで自分を傷つけているように見える人だって初めからそんな屈折した考えを自分の人生の基本方針としていたわけではないんだと思う。
 人生のどこかで諦めるか、受け入れるか、逃げ出すかして、そうなったんだ。
 そういう人はみんな金タローアメのように同じく、等しく、疲れて諦めた顔をしている。多分ぼくも変わらない顔をしていると思う。
あるいは、安定という言葉をバカにしつつ、あくまで組織に組み込まれている現実を受け入れて、でも組織に染まるのを拒絶して、生活の金のために働く人。
 大体この二つのやるせない表情をした人が多い。
なんだか暗い雰囲気の話になってしまったけれど、結局工場という所はそういう人が集まっていて、閉鎖的な環境も加わって、最果て的な要素を多分に含んでいる。
でも、楽しい、という実感が街の孤独を上回るほどあるとぼくは思っている。
 実際、日本の食糧基地と名実ともに言われている十勝の端っこの製糖工場の寮にぼくは今いるのだけど、わりあい楽しい日々を過ごしている。大正デモクラシー的にすべてを新しくより良い未来へ、とか、平成の閉塞感に満ちた管理規制の下の自由へ!という空気はないけれど、昭和的ノスタルジックな人と人との関わりというものがこの製糖工場にはある。
 仕事は確かにつまらないし、ぼくも生活のために時間を売って金をもらっているような所はあるけれど、言ってしまえば誰だってそうでしょう?
工場という閉鎖空間の中の、さらにパンドラのハコ的な隔絶世界の寮という所では、おべっかも気遣いもなく、自我を貫き好きなように生活している人もいるし、その真逆の人もいる。
人と関わることを避けたければそうすればいいし、人と関わりたいなら誰かしら同志は必ずいる。部屋にこもっているだろう人も、面白いやついねぇかな、と食堂に長居したり、必要以上に洗たく場にいる人や、管理人気取りで共同のゴミ箱を見張る人も、屈折する以前はただの世を知らない無邪気な子供時代があり、誰しもそんな自分らしさというものをどこかで守っている気配がある。
無邪気に生きていくのは難しい複雑な世の中だなぁと思うことが多いけれど、だからこそ、言ってしまえば極限状態にある工場の寮の中で人間味ある人がぼくは好きだ。
 それぞれが居場所を見つけて、みんながニカッと笑っている社会というのをぼくは望んでいる。心から。