049:黄色い夢を見たことあるかい

かぼちゃの季節がやって来た。どうもこんばんは。最近はかぼちゃの加工場で毎日かぼちゃと触れ合っています。
毎年秋が終わってから本当の真冬がやってくるまでのひと月かふた月、かぼちゃの季節がやってきます。かぼちゃの季節とは何か。具体的に物申せ。という人のために簡単に説明するとですね。
かぼちゃがありますね。かぼちゃがありますねと言ってもひとつふたつみっつ…と言うかわいい量ではなくて、背丈より高い大きな金属製のコンテナにこれでもか!とどっさりかぼちゃが入っていてですね、これがまたひとつふたつみっつ…ではなくドーンとコンテナ100個とかそんなバカみたいな単位であるんですね。
こいつを牛でも洗うのかというぐらい大きな横型の洗濯機のようなもので洗って、ヘタを取ります。普通の人からしたら一生かかっても見ることのない量のかぼちゃを毎日見続けて触り続けるわけです。
大型バイクの8の字走行の練習が楽ちんで出来るぐらいの倉庫にぎっしり詰まれたかぼちゃを見たことがありますか? なんだか得をした気分になりますよ。
しかしそれも初めのうちだけで、日ごとカラになっていくコンテナの数に比べて、一向に減っているように見えない、かえって増えているんじゃないかと思わせるようなかぼちゃの群れがぼくらをうんざりさせたりするのですね。
かぼちゃと言う物体に対してぼくは好意的な気持ちを抱いていて、あれは野菜というくくりで間違いないんだろうけれど、良く見知った野菜とは一線を画すあのずっしりと存在感ある佇まいや、持ってみて重さ以外に感じるしっかりとした固さや肌の質感や素朴な雰囲気なんかが、なんとなくぼくに南の島の無口で武骨な職人というものを感じさせるのです。
そんなものを感じさせるからなんなんだという人もいるだろうけれど、イメージというのは大事じゃないですか。それにこのあたりのお年寄りから年に3回ぐらいは、昔は芋とかぼちゃばっかり食べていたけど、今の人は色んなものがあっていいよね、ほんとにあたしらの頃なんか冬の間はずっと芋とかぼちゃばっかり食べていたもんだよ。という話を嫌でも聞くので、そんなところも質実な食べ物と言う感じがしてぼくは素直にかぼちゃってすごいなぁ、と思っているのです。
しかしその話をするときのおじいちゃんおばあちゃんは笑いながらもどこか悲しそうな、心の内で怒りが湧き上がってきているような切ない表情をしているので、そのあたりもなんだかやるせない人生の深みといったものを否が応にも感じさせて、ドラマティックだと思うわけです。こじゃれた日持ちのしない覚えづらい名前の野菜にはない、古い時代の暮らしから発生した確かなドラマがかぼちゃにはあるのです。
それでええとヘタを取られたかぼちゃがどうなるかと言うとですね、ここがかぼちゃ工場の花形部署と言うことになるんだけど、針のついたろくろの機械みたいなものにかぼちゃをずどんと座らせて、ギュイーンと回転させて皮をむいていくのですね。
文字で説明すると実に簡単でなんだか楽しそうじゃないかと思う人もいるだろうけれど、これが熟練の技と経験を必要とする工程で、ぼくも何度か挑戦させてもらったことがあるけれど、中心にうまくかぼちゃを座らせることが出来なくてかぼちゃがあらぬ方向へ飛んで行ってしまったり、うまく座らせることが出来たぞ、と思ったら皮のむき加減がうまく掴めず、あれ?とかあれれ?とか言ってる間にぽんと後ろから肩を叩かれて、「かぼちゃがなくなっちゃう」と言われ、ヘタとりを命じられたりして、花形部署での活躍は今のところ見込みがないのでした。
昔炊事遠足で、にんじんの皮をどこまで剥いたらいいかわからないの、という人をバカにしたことがあったけれど、この時のぼくがまさにそうだったのです。10年20年選手のおばあちゃんたちが、すっとろくろのような機械にかぼちゃを座らせて、回転するかぼちゃに皮むき器をあててさらさらと流れるようにキレイに皮を剥いてるのを見ると実に感動的で、見る分には簡単そうなんだけれど、あの域まで達するには長い年月とそれなりのセンスがいるんだなぁと感じたのでした。
どうしてそんなに上手に剥けるのか、とぼくをかぼちゃ工場に紹介してくれたとなりの家のおばあちゃんに聞いてみると、こうすとんと刺してしゅるしゅるってやったら簡単だよ、と感覚派のお手本のようなことを言っていたので、ぼくは名選手名は監督に非ずという言葉を思い出しながらかぼちゃのヘタ取りに専念したわけです。
皮が剥かれたかぼちゃはそれから十字の刃でガチャンと四つ割りにされて、ワタを取られます。ワタを取るのには他で見たことのない、先の反った薄い刃物を使んだけれど、ベテランの人はアイスクリームをすくうみたいにすうっとなめらかにワタを取っていきます。なめらかに刃が入り、ワタとかぼちゃの食べるところがキレイに分離していく一連の流れは見ていて気持ちの良い動きだけれど、ご存じのとおりぼくはそんなに器用なほうではないので、ぎこちなくみるからにへたくそであちゃーと目を覆うような姿のかぼちゃを晒すことになるのでした。
今でも覚えているのが、う~ん、こうか?こうなのか?と苦戦しながらワタをとっていると、対面のおじさんがやってきてぼくの得物をとっていくつかのワタをとり、「刃が付いてないわけじゃないんだな…」と言ってすたすたと去って行ったことです。あの時手元に返されたナイフはずっしりと重たく感じました。
しかし何年か経ち、そんなぼくもどうにか半人前ぐらいになったけれど、かぼちゃ工場を取り巻く状況は少しずつかつ、ダイナミックに変わりつつあるのです。一言で言うと高齢化というやつで、入ったばかりの頃に仕事を教えてくれて一緒にヘタを取っていた地元のおっちゃんは年金が出るようになったからと引退してしまい、花形部署で皮剥きをしていた地元のおばちゃんたちも、立ち仕事がつらい年になったからとか、家庭の事情だったりで、数年の間に何人も減ってしまったりして、今では派遣会社を通してやってくる人の方が多くなってしまいました。
過疎と高齢化の問題が付きまとう町なので仕方ないことなのかもしれないけれど、なんだかほんの数年前の暖かで和やかな雰囲気が少し違って感じられるのは雪が降り始めたからだけではないと思うのです。休憩室でお弁当を座って食べていたおばあちゃんが今年は低い座椅子に座ってお弁当を食べていたりする姿を見たりしても、なんだか一年分世の中の時間は進んでいるんだなぁとセンチメンタルな気分になってしまいます。
思えば最近夢の中で黄色一色ということが多い気がして、内容はまるで覚えていないけれど、とにかく黄色い空間で黄色いものをいじくっていて、目に映るものすべてが黄色い。どうしてだろうか、と少し寂しくなった工場の中を見渡してみると、皮の剥かれた黄色いかぼちゃに、手元にはやっぱり黄色い四つ割りのかぼちゃがあり、ワタをとったかぼちゃを入れるコンテナまで黄色くて、おまけに工場の壁に吹き付けられた断念材まで黄色。さらに視線を目の前に移すと、これでもかと対面のおじさんはかぼちゃ色のヤッケを着て黄色い手袋をはめています。
日中目にするものと触れるものがこれだから、そりゃ夢にも引きずるよなぁ。黄色と言えば幸せなイメージの色だけれど、だからこそ、かぼちゃ工場に幸いあれ!と思う今日この頃なのでした。《2020年12月2日記》