●子供の頃、押し入れにはオバケがいるんだよ、言うこと聞かない悪い子の所には恐いオニが来るんだよ、という、今ならそんな子供騙しをいい大人が真面目な顔して言ってるんじゃないよ、というようなことをいちいち真に受けて、ぶるぶると震えていた。
●ぼくだって罪のないイノセントなそれはそれはかわいい子供時代があったのだ。
大人の言うことを真剣に聞いては行動をあらためたりしていた。
●お母さんの制止を無視してスイカを食欲のままに食べて、オネショをしたこともある。今ならオニでもカニでも来るんだったら来いよ、言いだしっぺが連れてこいよ!ほら、早く早く!と実に憎たらしい顔で言えるけれど、子供の頃は大人の言うことが絶対だった。
●大人になった今では、子供は子供で深く真剣に物事を考えているんだなぁ、と思うことがあったりして、また逆に大人も大人で大変なんだなぁ、と自分自身実感することもあって、時の流れを感じたりしている。
●そうして思うのだけれど、子供みたいな大人って世の中にたくさんいる。聞いた話じゃなくて、実際に自分で見て関わった人の中だけでも、すぐ思いつくだけで1ダース分ぐらいわっと頭に浮かんでくる。
●人を頭ごなしに上から目線で分類するのは好きじゃないけれど、子供みたいな大人に共通しているのが「真に受ける」ということだと感じた。大卒じゃないとスタートラインから出遅れてるとか、頑張っても報われるとは限らないからねなんていうネガティブなことを真に受けたりする割に、人生には無限の可能性がある、夢は必ず叶うと信じている人の所にはサンタさんがきっと来るよ、なんていう子供ならそれだけでコーフンしてたちまち泣いてた坊やも笑顔になりました。めでたしめでたし。といった話は卑屈に顔を歪ませて急に現実的に否定して饒舌になったりする。
●そのくせ当の大人子供はいつも同じようなことを口にしている。ここはだめだ。こんなやり方じゃうまくいかない、今年でやめてやるこんなとこ、とケナしつつ、でも…と口々にどこも似たようなもんだしここだけが特別悪いってわけじゃないし、ここもそれなりにいい所はあるし、といった辞めない理由も辞める理由もまぁよくそんなに出て来ますねといった具合にぼそぼそ暗い目で同じようなことをしゃべり続けるか満足して黙ってしまうのだ。
●思うに彼らは、(ぼくもそうだけど)純粋ゆえに色々と真に受けて振り回されてしまうのだろう。脱皮の機会があればどんなみにくい幼虫だってサナギになって羽を広げて空を飛ぶことが出来るのに。あるいはサナギのまま何か羽化のきっかけを同じ場所で待ち続けているのか?
●いつまでも罪のない子供ではいられないしイノセントな時は短い、何か重大な子供騙しをぼくは真に受けて引きずっていないだろうかと考えてみる。
農業見習い中
白木哲朗のエッセイ百番勝負