021:漬物BOOKの企画書です

あざらし注●白木哲朗くんのエッセイ集を出すとしたら、何かオマケを付けよう。何がいい? 漬物なんてどうでしょう。面白いね、企画書を作ってみてよ。なんて会話を経て、提出されたのが、この企画書なのです。結局、食品をオマケに付けての書店売りは不可能ということでボツになっちゃったんだけど、白木哲朗くんの情熱が感じられる企画書なので一読の価値はあるんじゃないかな。
男に生まれたからには常に探求心を持ち、遠い未来を見据え日々の暮らしを向上させていく気概が必要である。しかしこの不景気で閉塞的画一的な時代にぼくらは何ができるのだろうか。
作家の椎名誠さんは父親が死んだらグレなければいけない、と、荒っぽい青春時代を送ったそうだが、時代が違う。
古今東西若者には金がない。おまけに昔は悪ふざけで済んでいたようなことが大事件として扱われる世の中である。若者はエネルギーを持て余している。
そこでぼくが出した結論は、金のない若者は漬物を作るしかない、ということである。海沿いの若者であれば魚の干物やシャケトバなんかの珍味がそれにあたるだろう。野山がすぐ近くにあれば、野草や山菜を採ってきたり、その辺の枯れ木で工作をしたり、椅子を作ったりしたらいい。同じ景色でもきっと少し違って見えるだろう。
要は近くにあるものでなにか人の役に立って、おまけに腹も膨れたら言うことないなぁ。ということである。
じゃあ街の若者はなにをしたらいいか、なんでもあるのになんにもない、という昔のダイエー的な悲しい負の連鎖がそこから始まりそうなので、暇つぶしを都会で探すなよ、というような気持ちもあったりなかったりするのです。街がアスファルトやビルの群れで呑みこんで埋めてしまったものを探すなら、海ないし、山ないし、川ないし、自然の中に歩いて行ってみようではないかと。
本格的に食生活を見直さないとなぁ、とぜい肉をつまみつつプリン体オフの缶ビールなんかを結構真剣に飲みだすような年齢になってからでは遅いのだ。
探求心や遠い未来を見据えた暮らしという言ったばかりの大言壮語に背く結論が出たけど、今どきの若者らしくてそれもいいではないか、まず目先のことよ、遠くの成金より近所のおばあちゃんというフレーズを胸に、漬物道がここに始まったのである。
そしてそこにはネットで探してもなくて、電波不要の心温まる人と人との不変的なぬくもりがありそうではないか…。きっとぼくらはそういうものに飢えているんだね。にっこり。
【簡単に季節ごとの野菜と漬物】
〈4月〉
キトピロのしょうゆ漬け
イタドリの塩漬け など
〈5月〉
アスパラのめんみ漬け
アスパラのキムチ風 など
〈6月〉
ラディッシュのピクルス
ズッキーニのオリーブオイル漬け など
〈7月〉
枝豆のバルサミコ酢漬け
さやごと食べる豆系のすっぱ漬け など
〈8月〉
なすの糠漬け
だいこんと青唐辛子の辛くて酸っぱい漬物 など
〈9月〉
カリフラワーの甘酢漬け
パプリカのしょうゆ漬け など
〈10月〉
青トマトの味噌漬け
キクイモの味噌漬け
ざっとこんな感じです。
【こんなエッセイを添えて】
〈4月から5月〉
雪が解けていつの間にか春になっている。もう二度と袖を通さない気がしていたTシャツに袖を通し始める季節。同時にフリースやセーターを蹴っ飛ばし、邪魔だ邪魔だもうしばらくツラ見せんなよ、と言いつつ段ボールに押し込んだりする天候も人の情緒も不安定な季節。
山のシーズンは始まったばかりなので、山菜ぐらいしか野山でとるものはない。 畑はどこも茶色で、海でもこれと言った魚が獲れるわけでもない。しかし、春を迎え、何かと慌ただしく過ごすので、多くの人は目の前の生活に手いっぱい。
はっきり言って山菜の塩漬けぐらいしか漬けるものはない。でも、毎年これが楽しみで楽しみで…という一大勢力もある。この季節暇をしているのは老人ばかりだ。 山菜取りに明るい老人が近所にいるとこの時期は食卓が裕福になる。逆説的に考察するなら、趣味の範囲を超えて山菜を採りだすと老人への一歩を人は踏み出すのではないだろうか。
卒業や入学、入社などで、なにかとこれからの若者が取り上げられることが多いけど、なんのなんの! 春はそういった世間社会の海千山千を超え、さらに暇を持て余した老人たちが歳にはかなわんと固まっていた冬が終わり一斉に動き出す季節なのだ。春の息吹の新芽を刈り取るところがなんとも現代社会とリンクして味わい深いではないか。よって春は老人の季節なのである。ダイヤモンドの価値は人の死んだ数で決まるというけど、春の老人の価値は摘み取った新芽の数で決まるといっても間違いではない。人の業の深さを感じつつ夏の訪れを待つ。
〈5月から6月〉
ようやく畑にも緑が目立ち始め、これからこれから!と本格的に連日頭上から熱線をまき散らす太陽を見上げつつ、気持ちは真夏に向け高揚していく季節。
畑ではまだまだ収穫は始まらないが、冬が終わるのを前に寒さと闘いながら、育ててきたハウストマトが早くも色づき始める。それからカブやダイコンやちょっとした葉物がそろそろ一番乗りで食べられるようになる。しかし、生野菜に飢えていた人々はあっという間に平らげてしまうので、漬物に回る分まではない。
でも大丈夫、悲しむことなかれのアスパラの季節である。アスパラは茹でても焼いても揚げてもなにをしても美味しく値段もそこそこいい値段という、群を抜いて特別感のある野菜である。煮ても焼いても食えぬやつというのが人にいるけれど、煮ても焼いてもとびきり美味しいというのがアスパラなのだ。おまけに漬けても美味いとくればもういうことはなく、ただありがたいありがたいとその長身でスリムで、どことなく気品を漂わせる体を一心不乱に食べるのみである。
スーパーでは年中色んな野菜が全国から集められているので、旬を忘れそうになるけれど、5月はドカンとアスパラの季節で決まりなのだ。この時期になるとビールも格別おいしくなってくるしね。
〈6月から7月〉
山菜の季節よさようならと言ったところだけれど、山奥にはまだ探せば色々とある。しかし畑のウォーミングアップにあたる時期が終わり本格的にせわしなくなってくるので、なるべく手のかからないものがいい。
ウドなんかがわさっと手に入ったらもう献立は決まりだ。バケツでざっと洗ってぺりぺりと皮をむいていく。あとは茹でて酢味噌で和えたり、てんぷらが王道だけどそれじゃあつまらないなと、剥いた皮をまずごま油で炒めてきんぴらにしてしまう。それから節を守るようについている赤紫のきれいなところは、まとめて甘酢に漬けておく。そうするとお寿司屋さんのガリ的に箸休めにたまらない一品としてしばらくは食卓に花を添えてくれる。
この時期になると畑の野菜の収穫が始まるので、漬物を作る使命に燃えている金のない若者はにわかに忙しくなってくる。
〈8月から9月〉
さぁいよいよ最盛期。正直、この季節は太陽と大地の奴隷と言うような時期なので、なにを食べて過ごしているのかわからないような状況になることが多々ある。
この時期ぼくがよく食べるのが夏野菜たっぷりスパゲッティ。いつか紹介したい。
想像しただけでビールの冷えたのを飲みたくなってくる。
〈10月〉
この時期になるともう季節は秋。誰が何と言おうと秋であって、下手すると背中を丸めてもう冬だバカ!という年もある。日中暖かいので、まだまだ夏は終わってないねぇなんて言うあきらめの悪いやつがいたら、日が暮れた川っぷちに連れて行ってやれば「秋です秋です、セーター出さなきゃね」なんて言うに違いない。
その年の収穫を終え、長く寒い冬に向けて片付け仕事に入る。そうなると当然後片付けが優先されるので、寒さで成長の止まった野菜たちは露骨に扱いが変わる。収穫を待たれる冬野菜と、哀しき夏野菜の末路・・・。
冬野菜はおなじみの大根白菜キャベツ葱たまねぎetc…。変わったところで西洋野菜の根セロリやポロ葱。彼らは寒いでしょう、おふとんかけてあげるからねぇ、もう少し大きくなるんだよ、などと優しい言葉と手間をかけられつつ収穫の時を待つけど、旬の過ぎた夏野菜の末路と言うのは悲しい。その最たるものがトマトだ。   夏を迎える前には早く赤くなってね、太陽をたくさん浴びて大きくなるんだよう  なんて言われていたのが、露骨にまだ青いのかよ、いつまでそんな青っ白い姿でいる気だ?あぁ?など言われ、あげく強制的に赤くなれとホルモン剤をまかれるやつもいる。最終的には赤くならなかった青玉トマトは土へと還っていくことになる。
しかし、この青玉トマトも漬物にすると真っ赤っかのトマトとはまた違った顔を見せてくれるのである。味噌漬け糠漬けなんでもこいの守備範囲の広いやつで、   赤いだけがトマトじゃないぜとトマトの底力を感じさせてくれる。ほかにもこんなに寒くなっても君たち頑張ってるじゃないか、とカリフラワーやカブなんかも野菜の底力を感じさせてくれる。
漬物からそれてしまうけれど、ぼくはこの時期のかぶとほうれん草のスパゲッティというのが一年で一番しみじみおいしく感じるのでした。〈2019年5月6日21:05記〉
あざらし注●とっておきの漬物レシピなどの企業秘密的な部分は割愛して紹介しました♪