020:イージー☆ライダー

季節は春の終わり、あるいは初夏が望ましい。日差しも穏やかながら実に力強くさんさんと降り注ぎ、気温は程よく暖かく、目に見えるものすべてを讃えるようにやわらかい空気が世界を包んでいる。と言うようなヒジョーに素晴らしくゴキゲンな時に人はなにをすべきか。答えは簡単で、風になるのである。
世の中には高尚とされるような努めて人に言いたくなる類の趣味から、低俗幼稚で犯罪予備軍の温床と揶揄されなるべく人に知られたくないなぁという趣味、人に迷惑をかけることはしたくないんだけどと言いつつ集まって人に迷惑をかける集団行動が好きな人まで人の数だけ趣味があると言ってもいいだろう。
一人一人が独立して趣味を楽しんでいるのならいいけど、往々にして趣味と言うのは人を巻き込む方向へと舵を切ることが多い。手を洗ったのはわかっていても、なんとなく不潔に感じるおじさんが打った蕎麦や、うーんただの湯呑にしか見えないんだけどなぁという自作の品を喜々として語る陶芸おじさんに遭遇したりすると、そういった趣味の世界に対してうんざりした感想を持ってしまう。
趣味には2種類ある。これはつまり形に残るものと、形に残らないものですね。形に残るものを趣味としている人にも、形の残らない刹那的快楽を追い求める趣味の人も、のめりこむと周りは迷惑するものだ。まぁそれは今はいいか。
趣味の話である。社会人になる=趣味に悩むという図式に異論はあろうが反論は特になかろう。学生時代と社会に出てからでは、違いは多々あるにしても友だちとの付き合い方が大きく変わるものである。憧れていた大人な自分を追いかけていたはずが、忙しくて慣れない日々の暮らしに追われて、なんだか常時不完全燃焼で辛い日々の生活にどっぷり浸かって幾星霜。なんてことは多かれ少なかれ誰もが経験することじゃないだろうか。
学生時代はそんな時自然と仲間が集まって楽しくしてたよなぁ、と思っても、それぞれの暮らしを思うと気軽に声もかけられなくなって、待ち望んだ休日を持て余すようになった時が社会人の始まりともいえるのである。ヒマだし、遊ぶ相手もいないし、なんか趣味でも、ということを考え出すともう少年少女の頃の瑞々しさは失われているのだ。辛いけど仕方ないのだ。
でもいつだって若々しくいたい! 楽しみたい! 朝起きるのツライ! と思った時に人はどのような行動に出るかと言うと、趣味を探すのである。考えてみたら小学生の頃なんか、小学生であることが人生の全て兼趣味みたいなもので、なんとも無責任で無邪気でいられた。投げ出すことも挑戦することもできたし、あらゆることが自由だった。もちろん身に余る等身大の悩みはいつもあったけれど、今になって思えばそれもそれで少年時代なんだなぁとも思う。
ところが、大人になるとどんどん自由がなくなって、世界が狭く重くのしかかってくるような気がして、とりあえず義務感でつまらない仕事をして、休日はなにもやる気が起きない、となりがちだ。そんな毎日はちんちんに毛が生え揃う前は想像もしてなかったんだけどなぁ。
さて、趣味の話だ。穏やかな風が吹き、畑仕事もひと段落して気圧も情緒も実に安定して開放感がどことなく漂ってくるような時があれば、我々は風になることを目的としてバイクに乗る。目的は風になること、のみである。すべてを脱ぎ捨て、悩みやしがらみや厄介ごとなんかもひとまとめにして風に放り投げてしまう。バイクに乗って走り出すと、そんなことが簡単にできてしまう。
ついでとして、やっぱりちょっと遠くに行くならどうせなら海を見たいよね、それにどうせなら温泉に入りたいよね。あと海のものを食べたいね、どうせならうんと美味しくて財布にも優しい値段のをね。と、どうせならと言いつつ細かく注文の声が出てくるが、それはそれでツーリングの楽しみだ。
そんなわけで先日約3名で紋別へ行ってきた。なぜ紋別かと言うと、昨年増毛に行ったので、今年は反対方向だ。海さえ見れたらいい、という実に単純な理由からだった。さてさて、そこでクドクドと聞いてもいないことを一方的に話されて、もう趣味の話は聞きたくなぁい!と思ったことが誰しもありますね。と思ったところでこの話はおしまいなのだ。
趣味の話は難しい。〈2019年7月4日23:28記〉