051:北風と太陽とサンドイッチ

どうもこんばんは。忙しく過ごしているでしょうか?
世の中には色んな記念日があり、その多くが語呂合わせだ。例えば7月4日が梨の日だったり、8月6日でハムの日だったり、11月22日がいい夫婦の日だったりと、実に単純明快でわかりやすいですね。ちなみにぼくの誕生日の1月22日はカレーの日だったりする。そうか、だからぼくはカレーに弱いのか。そうかそうか。で、ここからが本題である。
3月13日は何の日でしょう? もったいぶってもうちょっと後で答えを発表しようと思うので、頭を柔らかくして想像してみてください。単なる語呂合わせではなく、ちょっととんちが利いていて、思わぬ場所でその事実を知ったぼくは、ひとりで「おおっ!」と感心して喜んでしまったのです。
今年の3月13日は良く晴れた日曜日で、なんとも気持ちの良い日だった。あざらし編集長からおつかいを頼まれていたぼくは、まず澄川の浪漫亭でシュークリームやプリンやケーキを数点購入した。人には色んな性分があるけれど、無類のおつかい好きのぼくは、それだけで朝からゴキゲンだった。
さらに駐車場の警備のおっちゃんがとても気さくな人で、駐車場がぬかるんでいるから気を付けてね、なんて当たり障りのない一言二言の事務的な会話があっただけなのに、おっちゃんの陽気さにあてられてぼくの心はさらにゴキゲンになり、今日が良い一日になることを予感させてくれた。多分ムリだけど、ぼくもこのおっちゃんみたいにありたいものだ。
それから街中のとあるマンションへと向かう。この移動の途中で、お腹が減っていたし時間に余裕があったので、山鼻でスープカレーを食べた。そうかそうか、この時は考えもしなかったけれど、ぼくはカレーの星の下に生まれて来ているようなので、カレーに弱いのだ。そうだそうだ。
ラム肉の入ったスープカレーを食べてよりゴキゲンになったぼくは、目的地のマンションへとハナ歌なんか歌いながら向かう。このマンションに来るのは三回目か四回目ぐらいで、あざらし編集長に命じられて初めて行った時は、なんだか悪いことをしているような、軽犯罪の片棒を知らずに担がされているような、そんなドキドキ感を味わったことを覚えている。
どうしてそんな気持ちになったかと言うと、突然あざらし編集長から、「街中の〇条〇丁目の〇〇というマンションの〇〇〇号室の郵便受けから封筒が飛び出ているはずだから、それを怪しまれないように回収して、持ってくるように」と、あまりに怪しい指令を受けたからだ。
その言葉を耳で聞き、足りない脳みそで懸命にどういうことだろうか?と考えてみるも、なにやら怪しいことを頼まれているようだ…という答えしか出ず、かと言って秘密主義者のあざらし編集長に、「軽犯罪の匂いがするので詳細を教えて下さい」なんて定規で引いた線みたいなことを言う度胸はぼくにはない。よって、謎めいた指令が頭のなかでぐるぐるしながらも、ぼくの口から出た言葉は、「はいっ、わかりましたっ!」という実に情けなくもハツラツとした返事だった。
そしていつもより心臓が早く動いているのを感じながらそのマンションへと到着した。経験のある人はわかると思うけれど、自分の家でもない、友達の家でもない、明確な用事があるわけでもないマンションに入っていくというのは、とても心細い気持ちになる。多分世間的に認識されているコンプライアンスなるものに明らかに違反するようなことを、あざらし編集長はぼくに頼んだりはしないだろう、という気持ちを頼りにエントランスへと向かう。
向かいにあったコンビニに車を停めたので、エントランスまでの30歩ほどの距離がとても長く感じる。気分は落ちたら終わりの平均台の上を歩いているような感じだ。すれ違った老人がちらっとぼくのことを見たような気がして、「もしかしてぼくはなんらかのことを試されていて、今の老人は監視者かなにかだったのではないか…」というようなことを思い、ぼくは心の中で大いに狼狽した。
長い長い30歩をなんとか歩き、マンションのドアに手を掛ける。「怪しまれないように」というあざらし編集長からの指令が逆効果となり、ぼくは明からさまに、『怪しいやつのお手本』みたいに不審な挙動でエントランスに立ち並ぶ郵便受けの中から、目的の〇〇〇号室を探す。運よく誰かに会うこともなかったけれど、防犯意識が高く、感覚の鋭い住人なんかとたまたま遭遇していたら、今ごろぼくはこうしてのんきに原稿など書いていられる状況にはなかったと思う。自分に直接的な用事もない知らないマンションで、怪しげなミッションをこなすというのは、相当神経をすり減らすものだということがこの時わかった。しかも、この経験が、今後も続くであろうぼくの人生のどこかで役に立つとは思えない。
心臓バクバク状態で車に戻ったぼくは大きく深呼吸をして、封筒を極力目に入れないようにしながらカバンに入れた。なぜ極力目に入れないようにしながらカバンに入れたかと言うと、それは臆病なぼくの処世術とでも言おうか…。なーんて、大げさな表現だけど、ぼくが根暗で臆病なことは事実だ。この時ぼくの頭のなかでは、そんなことはないだろうと確信があったけれど、脳みその片隅でこんなことを考えていた。
本当のところでは今回のこのあざらし編集長からの指令はぼくへの最後の指令で、あざらし編集長は何か止むにやまれぬ事情があってか、もしくはモノカキというのは実は仮の姿で、実際は闇社会で幅を利かす人物であり、大きな仕事をする時に使い捨てにするコマを日常的に育てていた。そのための隠れ蓑がモノカキとしてのあざらし編集長なのである。今回その闇社会の大きな仕事をこなすにあたって使い捨てのコマ(明るい未来は当然無い)として選ばれたのがぼくで、この封筒を届けようが届けまいが、ぼくは消されてしまうのだ。
この封筒を届けた場合はあざらし編集長本人の手にかかりぼくは命を落とすことになるのだろう。届けず逃走しようとした場合には、さっきすれ違った老人がぼくの命を奪うのだろう…。しかしいくら闇社会で生まれ、闇社会で育ち、今は闇社会を動かしている人だとしても、人の心というのはあるだろう。来たるべき時に命乞いの材料として、「封筒は回収しましたが、誓って中身も見ていなければ、表書きの一文字も見ていませんっ!」と言って情けを乞う状況と言うのも場合によってはあるかもしれないな…と思い、ぼくはその封筒を極力目にすることなくカバンに詰め込んだのだ。
その封筒を生きた心地のしないままあざらし編集長の元へと届けると、今度はあざらし編集長から「帰りに同じ郵便受けに入れるように」と別の封筒を渡された。
「あっ、おれはもうそういうことか」
ぼくは自分の未来を悟ってしまったのだ。あと何度呼吸ができるだろう? 母親は突然消息を絶つことになるぼくのことを心配してくれるだろうか…オヤジはオヤジで今までぼくの出鱈目な人生にあまり干渉して来なかったけれど、どうしようもない要所要所でいつも駆けつけて来てくれたなぁ…消息不明となったらさすがに心配をかけてしまうだろうなぁ…年の離れた妹は奮闘中の就職活動で、望んだ分野の就職先をしっかり見つけられるだろうか…澄川のアパートの猫が心配だな…などと言うことを瞬時に思い、走馬灯が一瞬にして脳裏に流れ、無意識ながら封筒の表書きを見てしまった。
―どうやら原稿のやりとりであることがその時わかった。一般的にはここでほっとするのであろうが、ぼくはチキンである。この時から何度かこういった封筒のやりとりをしているが、実際のところは封筒の中に何が入っているかはわからない。今でもぼくは「もしかしたら…」という気持ちを頭の片隅に忍ばせている。もちろんそんなぼくの心配はまったくの杞憂に終わり、つつがなくその封筒のやりとりの指令を遂行してきたのではある。「今のところは。」であるが…。
初めてそのマンションに行った時に、臆病なぼくは「今日が人生最後の日かも知れない」と思ったので、不安からふと周りを見渡してみたりして、路地の向こうにサンドイッチ屋さんを見つけた。パン派でもごはん党でもなく麺類偏愛のぼくは今までサンドイッチに対してなんの感情を持つこともなかったけれど、状況が状況だ。磁石がくっつくみたいにぼくはそのサンドイッチ屋さんに吸い込まれて行った。
もしそこが文房具屋さんであろうと、新聞屋さんであっても、なんでもいいから社会とのつながりを感じたかったのだ。社会と繋がるか細き糸なるものをぼくは求めていた。そんな気持ちでサンドイッチ屋さんに入ると、当たり前だけどたくさんのサンドイッチがショーケースに並んでいた。ぼくは目移りしながらたまごサンドと焼きそばパン(サンドイッチじゃないけど)を買った。店員さんがサンドイッチを紙袋に詰めてくれている間、人生の岐路に立っていると思い違いしていたぼくはきょろきょろと周りを見ていた。
すると、入り口横に備えられたスチールラックにパンの耳があった。それもすごい量だ。スーパーのレジ袋ぐらいの大きさの袋にパンパンにパンの耳が詰め込まれていて(寒いギャグではないよ)、お値段なんと50円!説明書きによると、1キロ半のパンの耳が入っている。
ぼくの敬愛する古き良き時代を生きてきた人たちの学生時代や夢追う貧乏時代の話には欠かせないパンの耳というものに初めて出会った平成初期生まれのぼくはモーレツにカンドーし、その感情から両手をパン!と叩き、衝動的にそいつを購入した。しかしそいつを手にして車に戻り、あざらし編集長の元へと向かうぼくの頭のなかで、「買ったはいいけど、これ、どうしよう」という思いが浮かぶ。
そう、ぼくは食パンというのが好きではないのだ。サンドイッチのように具が挟まれているならまだしも、単体でパンの耳に噛り付きたいとは思わない。パンの耳に対する憧れは持ちつつも、実際はこうである。このあたりに時代は豊かになり、より贅沢に、よりわがままに飽食時代へと突き進んでいるのだという貧しさを感じる。ぼくらは本当の飢えを知らないし、食えりゃいいなどと嘯いてみても、好きなもので腹を満たしたい。精神はどんどん貧しくなっていくような気がする。
そんなことを考えているうちにあざらし編集長の元へと辿り着いたぼくは疑心暗鬼の中怪しげな封筒を渡し、苦し紛れにそのお買い得お値打ち品のパンの耳の話を切り出してみた。するとあざらし編集長はぼくの差し出した大量のパンの耳にびっくりするぐらい驚いて、「鳥のエサにサイコー!お金払うよ、いくら? 今でもパンの耳を売ってるところがあるんだぁ。。。」というようなことをやや遠くを見るような顔で言った。
ぼくはその時まだ命の危険を感じている時だったので、「いえいえ、たったの50円ですから、そのままもらって下さい! 猫用に少しもらっていますから! それでは封筒を入れに行ってきます!」と逃げるように言い、また例のマンションへと向かった。
こういうことがあり、例のマンションの「住人X」とあざらし編集長との間での原稿の封筒(なんだろうな、本当に)のやり取りをする時はそのサンドイッチ屋さんでパンの耳を買うのが恒例となった。
3月13日の今日もそのマンションに行き、もう慣れたものよという何食わぬ顔で封筒を回収して、路地向かいのサンドイッチ屋さんへと向かうと、あれれっ、駐車場がいっぱいだ! 今まで見たことのない警備員なる人もいて、いつもふらっと入れた入り口には行列ができている。しかし日曜日だというのに衝動的に飼育欲を掻き立てられ運命的なやり取りの末、今はぼくと澄川の狭いアパートで二人暮らしをしている元野良猫により無駄に早起きしたぼくには時間的余裕がある。時間的に余裕があると言うことは精神的にも余裕があるということである。ゆっくり寝たいのに、ごはんをくれくれとにゃあにゃあ鳴く猫も役に立つのだ。
普段なら目的地に行列があればすぐさま通り過ぎるぼくだけど、今日は猫のおかげでのんびりとした気持ちで行列の最後尾に加わることができる。一歩ずつ前進していく列。目に映るお店の壁兼窓ガラスにはサンドイッチのメニューや告知事項を示す紙が貼られていて、それらを見ながらゆっくりとお店の中に入れる時を待つ。すると、なんだか特別感のある張り紙があった。「たまごサンド100円!」と書いてあるではないか。むむむっ!これは買い物好きとして見逃せない。「お1人様5個まで」とも書いてあるではないか。
でもどうしてたまごサンドが100円なんだろうと思い、その張り紙の見出しを見ると、「3月13日はサンドイッチの日!」と書いてあった。ここでまたもぼくは、むむむっとなる。どうして3月13日がサンドイッチの日なのだ! 納得する説明をしてくれ、でないと脳みそが痒いじゃないか! ふざけた理由だったら、おれ、なにするか自分でもわかんないぞ! と無意味に頭の中でイキっていたら、見出しの下にこんな説明書きがあった。
3で1をはさんでサンドイッチの日! なあーるほおどねえ~。ぼくは感心して、なんだか楽しい気持ちになった。とってもわかりやすい! こういう瞬間に遭遇すると、脳みそになにか気持ちいいものが迸る。言われてみればその通りじゃないか! それでいつもよりお客さんが多いのか。
それにそのサンドイッチの日のチラシ兼ポスター的張り紙には偉ぶることもなく、「2000個限定! 今年もやります! 品切れのない様頑張ります!」とも書いてあるではないか。これが傲慢な誇大広告や欺瞞的ポスターではないことはまさに今行列中のお店周りと人肌の温もりが感じられる手書き調の張り紙が証明してくれている。
ようやく店内に入れたぼくはサンドイッチを数点と焼きそばパンを注文し、忘れちゃいけないパンの耳が並ぶスチールラックに目を向けた。するとどうだろう、信じられるだろうか、なんと、3で1を挟んでサンドしたのにちなんだサンドイッチの日限定で、ただでさえ破格のパンの耳が、「お一人様2袋まで無料」となっているではないか!
令和4年の現代社会ではぼくみたいな家賃1万6000円のアパートに住むマジ者の貧乏人や、パンの耳を現実的に必要とするあざらし編集長のような人はもう絶滅してしまったのか、棚にぎっしりパンの耳が入った袋がある。ぼくは珍しく俊敏な動きでそいつを2袋抱え、サンドイッチの並ぶガラスケースの上に置く。「えっ、あの、これ、ほんとに、今日は、無料なんですかっ!?」まだこの大盤振る舞いを心の底から信じられていないぼくは愛想の良い店員さんに尋ねる。
すると愛想の良い店員さんはニコッと笑って、「そうですよ、たくさんあるのでもうひとつ持って行ってもいいですよ」なんて言うではないか。いくら以上購入の方限定、とか、会員限定、なんて、後出しのセコセコしたものは一切ない。欲しけりゃ持ってけ、でも2袋までね、そんなに好きなら三つでもどーぞ。というそのサンドイッチ屋さんの姿勢にぼくは感服した。世の中はまだ欺瞞で満たされてはいなかったのだ。シェイシェイ。
ホントにいいのかな?なんてまだ思いつつ、ちゃっかり無料の振る舞いパンの耳をキープしてゴキゲンなぼくは今度はショーケースに名札はあるけれど、空っぽになってしまったままのたまごサンドの席を見つけてしまった。恐る恐るぼくは店員さんに、そのサンドイッチの日限定の100円たまごサンドはまだありますかと訊ねる。すると店員さんは笑顔で、「たくさん用意しています!」とすぐ裏の厨房的なところからたまごサンドを大量に持って来てくれた。お一人様5個まで、ということだったので、恥も外聞もなく、「たくさん用意してくれているのだから…」、と自分に言い聞かせ、100円のたまごサンドを5個購入した。
こうしてサンドイッチ屋さんのサンドイッチの日の心意気に見事に踊らされたぼくは、ルンルン気分であざらし編集長の元へと向かい、渡すものを渡したり、受け取るものを受け取った後、パンの耳とたまごサンドをふたつずつ手渡した。パンの耳が無料だったことと、たまごサンドが100円だったこと、それから、「そんなつまらないことを嬉しそうに話すんじゃない。もう子どもじゃないんだぞ。」みたいなことを言われるかも…と思いつつ、どうしてパンの耳が無料で、たまごサンドが100円だったのかの理由であるサンドイッチの日の話を恐る恐るしてみると、予想に反してあざらし編集長は「まじか! なるほど! すげえぇ! 野鳥も狂喜乱舞間違いなし!」と興奮して喜んでくれたので、ぼくも嬉しい気持ちになった。
それからパンの耳の袋をふたつ抱えたあざらし編集長から、次のおつかいを頼まれた。「新道東にとても疲れている人がいるから、その人に浪漫亭で買ったシュークリームやなんかを差し入れして、この資料を渡して来て欲しい。」という内容だった。〔新道東で疲れている人〕とは、ぼくもあざらし編集長を通して面識があり、パソコン関係でとてもお世話になっている人だ。「とても疲れていて休みの日なのに仕事をしていてさ、そんな日が続いているから、北風と太陽の太陽じゃないけれど、差し入れでもして元気を出してくれたらいいなって思ってさ」と秘密主義者のあざらし編集長には珍しく、おつかいのワケと心の内を教えてくれた。
何度も往復した道のりを、春を感じさせる陽気なお日さまの元、軽快に走り、目的地へと辿り着く。〔新道東で疲れている人〕はぼくの想像以上に疲れている様子というか、やつれていて、シュークリームやなんかの差し入れを手渡すと、少し表情が緩んだ。続けて、たまごサンドを差し出すと、「これ、どうしたの?なんでたまごサンド?」と聞かれた。
そうだよなぁ、差し入れというか疲労お見舞いで洋菓子を渡されると、素直に受け取ってくれる人がほとんどだと思うけど、差し入れにいきなりたまごのサンドイッチを渡されたら、意味が分からず、どうしたの?とか、なんでたまごサンド?と疑問に思うのが普通だよなぁ。困惑する〔新道東で疲れている人〕に、その単純な理由を説明しようとするも、こういう時ぼくの口からはうまく言葉が出てこない。ここまで信じられないぐらいゴキゲンで来れていた分、つくづく自分の不器用なところを重大なコンプレックスとして認識する。
どもってしまったぼくは、「お忙しい中、つまらない話をしてしまうことになり、恐縮ですが、今日の3月13日はサンドイッチの日でして、そのワケは3で1を…」となんとか単純な理由を長ったらしく説明することができた。口の回る人にとってはなんでもない説明なのだろうけれど、ぼくは、しまったな、回りくどくて分かりづらいな、ちゃんと思うところが伝わっているだろうか、という心配をする。
すると〔新道東で疲れている人〕は「なるほど! ありがとう! いやぁ、嬉しいなあ」と、喜んでくれたので、ぼくは心の底からほっとした。一連のすべての出来事に置いて、ぼくが特に何をしたということはないけれど、それでも目の前の人が喜んでくれて、笑ってくれているというのは、その事実だけを単純に切り取っても嬉しいことだ。ふと頭の中で、スピッツの「花の写真」という歌が流れだす。この歌、ぼく好きなのだ。興味のある人は気が向いたら聴いてみて欲しい。
朝家を出て、浪漫亭の駐車場で感じた予感は、間違いではなかったのだ。これからも己の身の振り方やつま先の向きに迷うようなことが何度もあるだろうけれど、今後はこう自問自答してみよう。ぼくは太陽になりたいのか、北風になりたいのか。日陰者で一生を過ごすのも悪くないと本当に思っているのか。気持ちよく暮らせるのはどっちなのか…。と。くだらねぇと蹴飛ばそうとしたサンドイッチの日はそんなことをぼくに考えさせてくれた。〈2022年3月19日11:05記〉