043:根室国喰奴記(ねむろのくにくうどき)厚岸編byどぶろく稔

東京の息子が希望する企業の内定を貰った。就職活動を労い名所旧跡巡りと併せて、温泉の旅で祝いたいと思った。いつの間にか親戚一同うち揃うといった感じの、ちょっとした慶事に成った。旅の宿は養老牛温泉に決めようと思う。「もしもこの広い北海道でたった一軒だけ温泉宿を紹介してほしいと内地の友に懇願されたら湯宿だいいちに泊まるべし」と、あざらし番長も太鼓判を押す道東の宿だ。新社会人と成り仕事関係者に「道産子お薦めの温泉は?」なんて問われたら、実感として自分の言葉で推薦出来るようにと親父は考えたからだ。
道東に行くからには、日本の本土最東端・納沙布岬まで足を延ばしたい。根室半島にはアイヌ民族にとって忘れ難い慰霊の場もある。地元の味では、どうしたってエスカロップを喰わねば成るまい。その異国情緒漂うネーミングを見聞いて30余年、コンビニの期間限定で売られた時もあったけど、初エスカロップは本場モンで味わいたいと密かに焦がれていたのだった。日取りは、標津川の紅葉降りそそぐ露天風呂を期して10月早々と考えた。しかし衆生繰り合わせの結果は下旬にずれ込み、葉が落ちやしまいか、時おり愁いた。
その日の釧路・根室地方の天気予報は快晴・中標津の最低気温は氷点下、放射冷却の影響との事だ。積雪にはまだ早いが念の為スタッドレスタイヤに交換しておこう。[午前に根室探訪 ⇒ 昼飯をエスカロップ ⇒ なるべく早い宿入り] とスケジュールし早々とビールを呑んで就寝した。ここ数年山歩きの遠征もしていないので寝覚めが“ぎこちない。起き掛けにテレビを点けると『EXILE TRIBE男旅 SEASON5』という番組で『根室編』を放送している。どうも俺はこういった偶然のヒキが強いようだ。若い奴は朝に弱い《おい!EXILEは既に根室を散策しているぞ!》息子の緩慢な身支度を心の中で咎めつつ3:30に札幌を出発した。
白糠で空が白んで来た。鍛高トンネルの表示を見留め「紫蘇畑はこの辺りにあるのかなぁ」と想像したら口の中が酸っぱく成った。2383mと長いそこを抜けた先は『日の出ずる国』と云った趣きで、東へ向かっているのを実感した。枯れ草に降りた霜が朝日に煌めいて美しい。今のところ道東自動車道は阿寒IC迄、まりも国道に降り釧路市内のコンビニで朝飯ついでのトイレタイム、吐息も白く流石に寒い。夏に釧路市民復活を果した“いい旅仲間のマサーシは寝床から出られただろうか。夜の高速道路を一人運転して淋しかった俺は、目覚めた街の喧騒が心地好く、そのまま市街地を進んだ。そうして思いの外時間が掛かり釧路外環状道路にしなかった事を諌められた。
厚岸の海岸沿いの台地から厚岸湾が見えた。愛冠岬・大黒島・厚岸湖に架かる赤い橋、こういった風景を見ると渡りたい衝動に駆られる。根室本線(花咲線)を門静跨線橋で越えてお寺を見た時、厚岸に古刹が在ったのを思い出した。《今回を逃したら訪れる機会はないかも・・・》息子に検索させると厚岸大橋の対岸らしい・・・親父の我儘で渡ってみる事に成りました。

8:10、バラサン岬に抱かれた臨済宗・国泰寺に到着。異国勢力の接近に対する蝦夷地幕領化政策の一環として、文化元年(1804年)江戸幕府によって建立された三ヶ寺のうちの一寺である。当時は、寛永8年(1631年)発布の新寺建立禁止令により新たな寺院は認められておらず、蝦夷地には檀家もない事から米・運営費なども幕府が負担した。その為、同時に開基された有珠の浄土宗・善光寺、様似の天台宗・等澍院と併せ『蝦夷三官寺』とも総称されている。因みに宗派が異なるのは、徳川家康の江戸入府の際に菩提寺とした芝・増上寺が[浄土宗]、江戸城鎮護の祈祷寺として開山し三代家光・四代家綱・五代綱吉が帰依した上野・寛永寺が[天台宗]、家康の元で外交・宗教統制を担った僧・以心崇伝(いしんすうでん)が居住した南禅寺金地院が[臨済宗]で、いずれも徳川将軍家と関りが深い宗派から偏りなく選ばれている。三寺の住職は江戸城白書院で十一代将軍徳川家斉の謁見も叶ったのだとか。山門の三つ葉葵は水戸黄門の印籠ともいえる威厳の証なのでしょうね。

樹齢200年余りの古木が茂る“しっとりとした境内に小体で素朴な山門が良く映える。これぞ”禅寺然!とでも云おうか。現在の建物は幾たびかの改築・修繕を経た物で、当時の本堂・庫裡を目に出来ないのが残念だ。『史跡 国泰寺跡』の石碑を見つけ《えっ!国指定の寺の跡?どこどこ?》たまたま厚岸町郷土館の前にいらっしゃった職員の方にお聞きしたら「この辺り全体が国泰寺跡です」とのお話。トホホ・・・。境内(4千㎡)・お山等(13万㎡)を含めてお寺なのですね。
釧路新書NO20国泰寺歳時記(下北半嶋史)及び新厚岸町史によると「大畑湊(青森県)で製材・切り込みをすませ組み立てるばかりにして船で廻送してきた」、「七十七坪」の「最初の国泰寺の位置は現在の地蔵尊や仏舎利塔のある標高2m-5mの範囲の山寄りに存在していた」との事です。

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佐江衆一さん著、新潮文庫刊『北の海明け』、国泰寺一世[文翁]和尚一行の江戸出立から蝦夷地赴任、隋伴の少年僧[智弁]の成長と苦悩・信仰と救いとが、アイヌ民族との交流を通して描かれています。第9回(1990年)新田次郎文学賞受賞作、アイヌ民族・宗教などに興味ある方はハマる作品だと思います。
厚岸会所跡の碑も道路向かいに建っていた。会所(かいしょ)とは和人とアイヌ民族の交易の拠点で元は運上屋と云われていた。その後、幕領化に伴って江戸の出先機関も兼ね会所と呼ばれる様に成った。200年以上も前に、アッケシ首長(コタンコロクル)イコトイがここを闊歩していたと想像すると感慨深かった。イコトイは和人対アイヌ最後の戦闘『クナシリ・メナシの戦い』の鎮静化に不本意にも奔走したメナシウンクルの豪傑である。これから向かう根室半島ノッカマップは、その戦いの無念な終息の地なのだ。
国道44号へ戻る道で、厚岸グルメパーク『コンキリエ』が見えた。そして4年前に急逝した友を思いしんみりした。コンキリエ新築時の設計監理担当として通っていた頃「フロントガラスに虫がへばり付いて難儀した」話を面白おかしく聞かせてくれたよな・・・。昨今のコンキリエは踊る外国人のCMも評判のようで彼も天国で喜んでいると思います。
厚岸寄って良かったぁ。こんな大事なキースポットを失念するなんてどうかしてるぜ俺。今回は時間に余裕が無くてスルーした厚岸町郷土館、海事記念館、お供え山チャシ跡群にも興味が湧いた。次に来るなら花咲線に揺られて、厚岸駅前・氏家待合所の名物駅弁『かきめし弁当』を摘まみに、釧路の地酒『福司』の旨いのでもチビチビやって、国泰寺の桜の時季に訪れてみたいと思った。