●午前中、室蘭へ向かう車のラジオは知里幸恵さんについて語られていた。今旅のもう一つの目的が『知里幸恵 銀のしずく記念館』を訪ねる事だったので、タイミングの良さにすっかり嬉しく成ってしまった。さすがはHBC《気分上昇ワイド》だ。ちなみに番組は『ナルミッツ!!!』、MCは『いい旅』にも所縁の田村美香さんです。
●知里幸恵さんは、パンフレットの言葉を借りれば「アイヌで初めてアイヌの物語を文字化した『アイヌ神謡集』の著者」という事になる。 記念館は登別市道・石山通から住宅街の6m道路を曲がった先、森に面して建てられている。幸恵ちゃんが明治42年6才まで育った場所が、まさに此処なのです。木製のドアを開け右側の受付で入館料500円を払い、進み入る。内部は入口正面に大きなガラス窓が配置された、森を見渡せる気持ちの良い空間だ。此方を運営されている法人が『知里森舎』と名乗られている事に納得のいく感じがした。「ちりしんしゃ」と読む。響きも又可愛いですよね。
●窓から見える木々の何本かは「父高吉さんによって植えられた物が今も残り、その庭造りなどを第一滝本創業者の滝本金蔵氏に見込まれ滝本館で働いていた」と、スタッフの方が陽よけのロールスクリーンを巻き上げて解説して下さった。アイヌ民族の伝統家屋チセをイメージしたという吹抜けの展示室1は、日記・手紙・習字などの遺品の他、写真や家系図、神謡集序文のパネルなどが展示されている。序文には『アイヌ神謡集』執筆に至った動機が記されているのだが、幸恵ちゃんの内面的感情、秘めたる思いに関しての、スタッフさんの見解が印象的だったそうです。ラジオの合田一道さんも同様の意見を述べられていた。
●履物を脱いで上がる2階の展示室2には、旭川のお母さんこと叔母の金成マツさん・弟の知里真志保さん・姪の横山むつみさんら親族の資料が展示されている。記念館開設に最も尽力された『むつみ永世館長』の木像も昨年新たに加わったんですね。
●“Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe ranran pishkan 「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに。」 本当に美しい翻訳ですね。訳詩というのが適切なのかもしれません。『アイヌ神謡集』原稿の校正を終えたその夜に天国へ旅立った幸恵ちゃん。19年3ヵ月の優しくも逞しい人生。彼女の軌跡に思いを馳せながらの鑑賞は、感激も一入かと思います。幸恵ちゃんの改葬をも手伝われた、藤本英夫さんのノンフィクション 草風館刊 『銀の滴降る降るまわりに ー知里幸恵の生涯ー』。記念館訪問前に、お薦めの一冊です。
●記念館を後にし向かったのは、登別川対岸の登別小学校前に建てられている『知里真志保之碑』。この小学校を卒業し東京帝国大学で学び、文学博士として名を成した彼の功績を顕彰する碑です。黒御影の石碑には「銀のしずく 降れ降れ まわりに」と記されています。言語学者の彼は神謡の背景にこだわりを持ち【「降る降る」は「降れ降れ」と訳すのが正しい】と友人の詩誌に校注を付けて発表しています。一方で、幸恵姉ちゃんのアイヌ神謡集を「いい本だ、いい本だ」と口ぐせに言っていたようで、始まりの「銀の滴 降る降る まわりに 金の滴 降る降る まわりに」が、特に好きだったとか。尚、師匠である言語学者・金田一京助氏は、「(降る~降れ)いずれでもいい」と解していたようです。幸恵ちゃんはアイヌ語と日本語のバイリンガルであったでしょうし、モナシノウク祖母ちゃんのユーカラを聞いて育ったので『言葉の響き』も大切にしたのでしょうね。アイヌ語では「シロカニぺ ランラン ピシカン コンカニぺ ランラン ピシカン」と謡います。なんとも楽しくめんこいフレーズではないですか。
●神謡集序文中の「・・・ 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。 ・・・」の一節『二人三人の強いもの』を弟の真志保は「俺だ!俺がそう成るんだ!」と思い定めていたのではないかと思います。幸恵姉ちゃんの遺言のようでもあります。
●樺太豊原女学校時代の真志保先生は、若山牧水の酒の短歌なども授業で使われたとか。酒もたいそうお好きだったそうです。そして、猥談のうまさは「天下無比、バツグンだった」と。文学者の語る猥談ですよぉ、あ~拝聴したかったなぁ~。折角ならチセのアぺオイでトノトなんか呑みながらピリカメノコちゃんと一緒に。
●「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけれ」 矢張り、藤本英夫さんの著作 草風館刊 『知里真志保の生涯 ーアイヌ学復権の闘いー』 前掲『銀の滴・・・ ・・幸恵の生涯ー』の姉妹編的な位置づけとの事です。両書共、大変綿密に取材・考証されてまして、石碑の持つ背景も感慨深いです。 知里真志保を語る会事務局長の小坂博宣さんが著された クルーズ刊 『知里真志保 アイヌの言霊に導かれて』も図版なども多く読みやすいです。
●今日は、午前に予定していた知里ちゃん記念館見学を昨日に前倒ししたので時間に余裕がある。チェックアウト迄たっぷりと温泉に浸かった。登別温泉の望楼を望む信楽焼の浴槽が割と好きなんですよね。折に触れては、具に成った気分を味わってます。
●昨日のこと。此方の宿の駐車場は少しばかり離れ、青鬼の親子の所が入り口です。当然ながら道路っぷちから埋まっていきます。チェックインが遅くなったので、ずーっと停めるスペースがないんですよね。それで最奥まで行ってみようと思ったら、次第にUターン気味に弧を描いて振り出しに戻った。しかも、宿に間近い所が空いてる。ちょうど信楽湯の目の前ですわ。残り物には福があるってヤツかと。川に沿って付けられているので、元が旧道なのかもしれません。
●チェックアウト後は登別駅周辺を巡った。登別漁港から眺めたフンベ山の地層が露出している様子が、TVで観た懐かしの昭和グルメ『シベリア』に似てると思った。昔ありましたよねぇチョコレートが掛かってると思って袋を開けたら羊羹でガッカリ・・・なんて菓子パンも。後で調べるとフンベ山の羊羹にあたる部分は「クッタラ湖が出来た時の、倶多楽火山の噴火で積もった火砕流が溶結凝灰岩に成った物で『登別軟石』と呼ばれている」のだそうです。明治の時代から石材として多用されていたようなので石切り場跡なんですね。登別駅舎(明治30年築~昭和10年改築)の外壁にも使われているのだとか。市内を石山通が走っているのは、その歴史に由来するのですね。あ~ぁ・・登別駅行ったのにその観点で見なかった・・。
●車での移動中、カーナビで目に留まった『ポンアヨロ遺跡』に寄ってみようと、国道36号線を折れてみる。狭い砂利道を下って行くと砂浜に辿り着いた。そこは、岩場を背に小川がせせらぐ静かな入り江だった。近年の豪雨で破損したのであろうかトラロープが張られていた。帰宅後、岩はポンアヨロ川が削り出した登別軟石の露頭と分かった。さらに近くにアイヌ語で『アフンルパロ』と呼ばれる岩穴があるのだとか。「あの世へ行く道の入り口」と訳されるそうな。くわばらくわばら。誠に“おどろしげな畏怖すべき場所ですね。周辺にそれと示す説明板などは設置されていないように見えましたが、付近一帯が遺跡・アイヌ伝承の地なのですね。
●さすがは真志保博士!「あの世の入り口」についても調査研究されている。全道各地にあるそうです。登別のアフンルパロも昭和30年、高吉父さんを伴い、盟友の山田秀三さんらと詳細に実地踏査されてます。 知里真志保著 北海道出版企画センター刊 『和人は舟を喰う』 アフンルパロの他、猥談の元ネタらしき稿も収録されてます。山田秀三さんは真志保博士も認めたアイヌ語地名の権威でありますが、北海道曹達(株)の社長でもあったのですね。元々曹達工場内にあったという、道路向かいの『ソーダ食堂』は、ボリューム満点・メニューも豊富・地元で愛される大衆食堂です。ザンギ定食900円良いですよぉ、目玉焼きが2つで嬉しい。なにより店名が堪らないんだよなぁ~。
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