031:屈斜路湖畔の静かでにぎやかな一夜

外泊は特別なことであって欲しい。
 先日わけあって道東方面へと出かけたのです。
 朝札幌を出て釧路へ向かい、そこから中標津へ行ったりして生意気にもその夜は屈斜路湖の近くのユースゲストハウスなるところに泊まったのですね。泊まったというよりは完全にわけあって「泊まらせてもらった」という感じなのですが、その宿に着いた時にはもう日は落ちきっていて、目印も特にない真っ暗な一本道を愛車のフィットくんと心細い気持ちでのろのろと走ってようやく辿り着いた時にはもうすでに何とも言えない安らかな気持ちがぼくの中に湧き上がっていたのです。
砂漠の花とか夜空にぽかんと浮かんだお月さまのように、その宿は全くの暗闇の中に突然暖かな光を少しだけ放ちながらそこにあったからです。

この宿を予約してくれていたAさんは、ぼくにそのユースゲストハウスなるところのことを簡単にしかし魅力的にこんな風に話してくれていたのです。
「相部屋だけど、ちゃんとしたところ」
「広間というか食堂的なところで宿泊者同士の交流があったりする」
「意外と若い女の子も多いから、運が良ければおしゃべりをする機会があるかもしれない。むふふ」
「しかも温泉付き」
まぁざっとこんな感じのことを言っていたのです。相部屋と言うのに少しむむむ、と思いましたが、考えてみればここ数年出稼ぎで泊まっていた寮も相部屋だったりちゃんとしてるとは程遠かったりしたので、布団が臭くなければどうだっていいや、温泉があるというから最悪布団が臭くて相部屋の人のいびきがゴジラ級にうるさくても、温泉にゆっくり浸かれたらそれだけでいいやぁ!という気持ちで恐る恐る宿の扉を開けチェックインをしたのです。
中に入ると木の空間が広がっていて、先日泊まった旭川のあやしいスパサウナのようにがちゃがちゃ混沌としている様とは正反対で、一気にぼくはほっとしました。がちゃがちゃしているのも大好きなんですが、今日は一日道東のゆったりした牧歌的な景色の中を走っていたので、泊まるところもそうであって欲しいなぁと思っていたからです。
受付にはぼくの他にもう一人四角い感じのおじさんがいて、宿の人と親し気に話していました。ぼくが入湯税150円を受付のおばちゃんに支払っていると(宿代はAZさんが支払い済みなので)、横からその四角い感じのおじさんが「ありがとうございます」なんて言うので、頭の中に?が浮かんでどういうことだ?と混乱してしまったのですが、どうやらこのあたりの人で、ぼくの支払った入湯税がまわりまわってその人の所属する団体にも入るから、という話でした。
疲れていたのであまりわけの分からん揺さぶりをかけてくるな!と思ったりしたのですが、四角いおじさんの顔を見るとにっこり笑っていたので、おじさんなりのコミュニケーションの取り方なんだろう、と納得してまずはあなたの部屋は2階のイオの間ですからね、と言われたので、荷物を抱えて階段をのぼりました。

とりあえず宿に着いたら缶ビールを飲もうと思っていたので、リュックの脇ポケットに差し込んでいたビールをなんとなく隠すようにしてイオの間を探します。
あまり得意ではないのですがこの宿がどういう作りか説明すると、受付からわっと広がる食堂部分の上は吹き抜けになっていて、その吹き抜けを囲むように2階部分にいくつかの部屋があります。一階には食堂の他にスタッフルームや厨房や風呂場などがあり、外から見ると吹き抜けの部分がずどんと空に向かって伸びていて、そのわきを固めるように平たく風呂場や厨房部分があって、大きな凸型の建物に見えました。
吹き抜けを囲むように2階に作られた部屋にはスピカとかデネブとかマゼランとかの名前が付けられていて、どうやらぼくの泊まるイオの間との関連性から考えてどうも星の名前に関係する名づけをしているようでした。しかしぼくは星を見るのは好きですが自分の星座のみずがめ座すら夜空のどこにあるのかわからないという感じなので、なるほどねぇ、とひとりで呟いてそれっきり部屋の名前について考えることはしませんでした。
階段をのぼった先には談話室のようなところがあり、漫画本がたくさんありました。部屋はロフト付きのこじんまりとした部屋で、梯子を上った先にベッドが二つと、下にもベッドが二つありました。下のベッドの一つには先客の荷物があったので、ぼくは迷うことなく梯子を上って屋根裏調の狭いスペースに二つ並んだベッドの一つを陣取りました。宿に入ってからはなんだか落ち着くような落ち着かないような気分だったので、それはなぜか考えてみると、清潔感と木の温もりに満ちていて、天井が高いからだということに気付きました。

ここ数年ホームレス状態であちこち出稼ぎに行ったり、農家の納屋の2階部分をむりやり間借りして畑仕事をしたりという生活だったので、キレイで清潔感溢れる空間に対する居心地の悪さと言うのを感じていたのです。
そもそも修学旅行以外で外泊をした経験自体がまるでないので、旭川のごちゃごちゃしたあやしいスパサウナ(そこもAZAさんがとってくれたのですが)で感じたのとはまた違う安らぎをこの宿の狭いロフト部分に感じてほっとしていました。
まだまだぼくにはちゃんとした個室の宿は早いんだなぁ、やっぱり狭くて小汚くて天井が低いところが一番だなぁ、としみじみ思いながら直立不可の屋根裏の狭い空間で中腰になりながら着替えをしていると、さっきの四角いおじさんが「よっ」とやってきました。
リュックの脇に差し込んでいた缶ビールを見られていたようで、よかったら一杯どうだい、なんて言われたので、まぁせっかくだしなぁと思い誘われるまま食堂に行き缶ビールを飲みました。
脳裏には「えーっ、北海道の人なんですかー!私たち明日なにも予定がなくってぇ」なんていう女性二人組の幻がちらついていたりしましたが、そんな夢のような話はないということをぼくは思い知ることになるのです。四角いおじさんは酒好き人好き世話焼きを平成が終わってしまった今でも貫いている人のようで、人恋しい人探知レーダーというのを装備していて、どうやらそのレーダーにぼくが捉えられてしまったようでした。
しかし個の細分化が進む現代社会においてこのような直接的接触からのアルコールを含む交流と言うのは中々悪いものではないかもしれないな、と意味もなく小難しい言い訳を考えながら、目の前のおじさんと何を話せばいいのか、などと腰を据えた食堂で考えていると、宿の若旦那風の赤い髪の男の人がやってきて、おじさんと親し気に話し始めました。せっかくだから君もなにか飲みなよ、一杯ご馳走するよ、と言われながらメニウ的なものを差し出されたので、ええい、もうなるようになれい、という気持ちで阿寒湖とか摩周湖とか硫黄山とか名付けられたカクテルの中から、屈斜路湖というカクテルをごちそうになりました。

作成過程が印象に残っていたのでどういう感じか書いてみます。
まずカクテルを二杯注文すると若旦那が厨房にのそのそと歩いていきオーダーを伝えます。厨房から女の人の声が聞こえて来て、厨房の入り口付近に並んだ酒瓶の前に若旦那が待機して、コアントロー取って、それからペパーミント、あとビーフィーター、メロンシロップも、なんていう女の人の声に若旦那は???という感じで酒瓶を探します。しかしよく酒の種類や酒瓶の配置をわかっていないようで、四角いおじさんがそれは一番上の段の左から二番目!なんて言って若旦那に教えてあげます。そのうちあのカクテルを作る時に使う壺のようなものをシャカシャカする音が聞こえてきます。しかし音ばかり聞こえてきて、中々カクテルは出て来ません。四角いおじさんと世間話をしながら、どんなカクテルが出てくるのか心配になるぼくがいます。
ようやく出てきたカクテルはキレイな色をしていて、直感的にセンスのあるカクテルだ!とエラそうながらも思いました。乾杯して一口飲むと、すごく美味しかったです。あとから知ったのですが、厨房から聞こえてきた声の持ち主の女の人と若旦那は新婚らしく、若旦那はカクテルを飲むのが好きで、若いお嫁さんは若旦那にカクテルを作るのが好き、という話でした。
お嫁さんは酒を飲めないらしく、酒の飲めない人の作ったカクテルがなぜこんなにセンスのある感じで気取らず落ち着いて飲めるのだろうか、と思っていたら、若旦那に毎晩愛情をこめて作っていたからというなんともハートフルな話が聞けました。
カクテルを待つ間普段はどんな酒を飲むかという話になって、若旦那はカクテルばっかり飲んでて、なんかこれが美味しくて…なんて話していた時にはぼくは無条件で「カクテルばかり飲む男なんて信用できん!」と壁を作っていたのですが、ワケを知って一気に新婚さん二人を好きになりました。
ぼくが澄川の安アパートでヤケクソ気味にセーコマの安い缶ビールを飲んでいる間にこの二人はカクテルを通して愛を育んでいたのか、そしてその愛がこんなに素敵なカクテルとなって目の前に出て来て、美味しいおいしいとぼくはまぬけ面で飲んでいるのか、と思うとなんとなく物悲しくなりましたが、せっかくの外泊なので極力そういうことは考えないようにしました。
缶ビールとカクテルを一杯ずつ飲んで他の宿泊者が四角いおじさんの手招きで食堂に来たので、ぼくは温泉に入ろうと思いその場を立ち去りました。風呂場は温泉と言われなければ小さな民宿の少し大きい湯舟、という感じのところでしたが、入るともうニブイニブイと言われているぼくでもわかるぐらいつるんとしたお湯でした。

構造上食堂から目に付くところを通らなければ2階の部屋には行けないので、変な風に絡まれたらいやだな、眠いしな、なんて思いながら風呂上がりに食堂を横切ると、若者二人組とがっちりしたお兄さんが四角いおじさんと若夫婦と楽しそうに話していました。ふとおじさんと目が合って、もう一杯だけどうだい!というので、こんな機会はもうないだろうし、楽しそうだし、どうせ部屋で一人で飲むなら食堂で輪の中に入れてもらえるならそうしようと思いその輪の中へ缶ビールを持って飛び込みました。東京から来た春休み中の大学生という二人組はギターの弾き語りや鉄道の旅の話を聞かせてくれて、がっちりしたお兄さんは京都から来ている人らしく、北海道っていいですよねぇ、夏もまた来るんです、ここに泊まるのも3回目なんです、夏は富良野と旭川に行くんです、なんて話をたんたんと嬉しそうに話していました。四角いおじさんは上機嫌に若者たちの弾き語りや語らいに耳を澄ませて、この宿の名物というスモークサーモンをご馳走してくれました。ぼくはあまりそういった輪の中にいることに慣れていないので黙ってにこやかに話を聞きながら、あっぼく以外みんなメガネをかけている、なんてくだらない発見をしたりしていました。
すると四角いおじさんがぼくに話題を振ってくれて、なんとなく自分がここに泊まっている理由を話すとまとまりがなくなるなぁと思ったので、へへへとお茶を濁してメガネ率の話をすると不思議とみんな盛り上がり始めたので、ちょうど缶ビールもなくなったしと思いぼくはその集まりを後にしました。
翌朝昨日の盛り上がりの余韻がうそみたいに消え去った食堂で朝ごはんを頂き、慌ただしく、しかし一夜を語らった確かなぬくもりを確かめるように簡単な挨拶をし合って各々次の目的地へと向けその宿からひとりふたりと出て行きました。
宿の人が言うには、今どこにいても耳にするウイルスのことなんかで海を渡ってくる人が軒並みキャンセルをしているらしく、昨日はとても珍しい夜で、ミーティングの出席率も100%で、しかも若い男の人が多くて、あっこういうところのミーティングってわからないでしょ?なんて話をしてくれましたが、そんなことを知らなくても特別な一夜だったなぁ、いい宿だったなぁと思いながらぼくもぼくでざぶんと温泉に浸かってからフィットくんと次の目的地へ向かったのです。
しかしこの宿を予約してくれたAZARさんもあちこちの寮生活の中で出会ったおじさんも鉄板的な話として旅先での男女の出会いの話をしてくれたのだけれど、ぼくにもそういう経験をする日が来るのだろうか、今のところそんな気配もなにもないぞ、などと考えながら東へとフィットくんに乗って出かけたのでした。