024:そしてぼくはスーツを手に入れた

 

スーツというものをぼくは持っていない。
 いや、持ってはいるけれど高校を卒業した時に洋服の青山で親に買ってもらったものがいまだにあるというだけで、もう何年も着ていないし、ハンガーに掛かったまま箪笥の肥やしになっているのでこういうのは持っているうちに入らないだろう。
しかしあまり詳しく説明しているヒマはないのだけど、この冬は仕事でスーツを着る機会があるところで働かせてもらうことになったのだ。軽い面接兼打ち合わせ的なものがおわったところで、スーツ持ってる?と聞かれた。ぼくは上司に痛いところを突かれた平社員のように歯切れ悪く、あのん、えーとその、その持っていないこともないと言いますか、つまりスーツという礼服のことですね、モノとしてはありますがしかしそのう…などともじもじしてしまい、そんなぼくを見てこの冬の勤め先の親切な人は、それでも大丈夫、なんてことを言ってくれたのだけれど、これは仕事が始まるまでにいっちょビシッとしたスーツを新調せねばならぬな、という決意が重々しくぼくにのしかかって来ていた。
いいとこのブランドもののスーツならば10年も経つとむしろ服としての格が上がってヴィンテージモノなんていうのになるのかもしれないけれど、洋服の青山で買った初めてスーツを着る若者向けの格安スーツが10年も経つとそれはもう言わずもがな、というものがあるでしょう。いや別に洋服の青山をコキおろしているわけではなく、モノにはモノの適正な価値と言うのがあるわけで、ついでに、何回も着ていないけれど青山製学生向けスーツの内ポケットには名前を刺繍してくれているのも気になってきた。刺繍があったおかげで友人の結婚式でべろべろになり着なれていないスーツの上をどこかで脱ぎ忘れてしまった時も無事手元に戻って来てくれたので、あんなに名前の刺繍に感謝するってことはこの先もうないかもしれないけど、社会人にはそんな心配はいらないだろうな。
ところが、である。そもそもスーツを買うにしても、どこで買えばいいのかがわからない。ずっとスーツを着る仕事をしている人からすれば鼻で笑われるかもしれないけれど、じゃあキミたちは大根のタネの蒔き時や、豆を植える時期を教えてくれる鳥を知っているのかい?自分の知っていることを知らない人のことをばかにするのはよくないことですね。
しかし考えてみればそもそもぼくの周りにスーツを着る仕事をしている人はおらず、試しにこの時期は廃油ストーブの点検微調整で大活躍している農場長にどこで買うのかなどと聞いてみたけど、それは八百屋さんにケータイの機種変更の相談をするような話で、聞く相手がそもそも間違っていたようだ。
そこでぼくは楽観的に、出先でばったりあったスーツ屋さんに飛び込んで事情を説明して、手頃でいて見栄えもよくお洒落なスーツを見繕ってもらおう、なんてことを考えていた。予算は5万円ぐらいを見積もっていた。しかしこれは予算限界突破の上限の上限で、出来れば3万円ぐらい、もっと出来れば1万円ぽっきりぐらいでカタがつけばいいな、ということを本当のところ思っていた。そんなことを考えながら重苦しい日々を過ごしていたところ、全く別の用事で入ったリサイクルショップの古着コーナーで、なんとスーツを並べて売っていたのだ。
これは!と瞬時に脳内にバビュンと走る電流を感じ、それに従うままそのスーツコーナーへと走って行ったのですね。距離にしては5mほどなので、近くにいた人はさぞびっくりしたことだろう。そこでぼくは一旦冷静になり、汚い手でスーツを触ってはいかんと思いズボンのふくらはぎあたりで両手を拭い、うやうやしくスーツを一着ずつ物色していった。
結果的に黒っぽい色で茶色っぽいストライプの入ったタケオキクチ製のスーツ上下を購入した。2300円。サイズもピッタリだし、値段も予算内だ。こういうのはダークなんとかのなんとか調でなになに系のなんて能書きがあるのだろうけれど、ぼくからすればスーツはスーツなので、めんどくさいことは言わないで欲しい。ていうかそんなリサイクルショップでスーツを買うなんて、と高いスーツを着ている人は笑うかもしれないが、そこに売っていたということはどういう理由かは知らないが、持ち込んで買い取ってもらった人がいるというわけで、そのぼくにとってはありがたい売主はスーツを着る仕事をしているという推理が成り立ち、そんなところでスーツを買うなんてとぼくをばかにする人の広い意味で同業者であるのだ。仲間なのだ。世の中どこでなにがあるかはわからないのだ。あまり2300円でスーツを買って喜んでいる人をばかにしないでもらいたい。
ぼくだってスーツを着る仕事をしたいと思ったことがあった。しかし、学も職もないぼくを採用する会社はなく、不採用の通知が届く度に、募集していたから応募したのに不採用ってなんだよ、そんなワケのわからん情緒不安定な会社なんかこっちからお断りでい!なんてくだを巻いていた時期もあった。しかし今日はスーツを着る仕事にありつけたヨロコビと、サイズ、質、値段、全て理想以上のスーツに出会えたので、そんなこともいい思い出のように思えてしまうのだ。いい買い物ができた日にくらいそんなことを思ったっていいじゃないですか。
そして帰り道、今日はいい買い物をしたなぁ、あれは多分新品で買ったら5万円ぐらいはするだろうなぁ、なんたってぼくでも知ってるタケオキクチだもんな、確かイオンに入ってたよな、それが2300円だなんて、ほんといい買い物をしたな。と頬を無条件に緩ませて、黄昏の冬道が金色に輝いて見え、街灯のひとつひとつがぼくを照らすスポットライトのように思える気分の中、家路に着いたのである。〈2019年12月5日23:18記〉