●海岸に打ち寄せては引いていく波の音。低く轟音を立てる漁船のエンジン。港を行き交うトラックとフォークリフトの駆動音。あちこちで交わされる聞き取れない漁師たちの声。眠りに着く前に目を閉じると蘇ってくる一日の出来事。
●なんて少しキザな感じで振り返ってみたけど、これは海沿いの町の日常そのものだ。山育ちのぼくには聞こえる音や目に見える景色、そこにいる人たちの話す言葉のすべてが知らない世界のことばかりで、なにより毎日海が近くにあるということ自体がまだどこか信じられずに浮足立っている。
●ここにアタッシュケースを持った黒服二人組がうろついていたり、歯抜けでルンペン風のカッコをしたおじいさんが胸元からウイスキーの瓶を取り出しつつ、たまに鋭い目で双眼鏡なんかを手にして遥か沖を突き刺すように眺めている、というようなわかりやすくサスペンス調なことがあればまた話は違ってくるのだろうけれど、今のところそういった人たちには出会っていない。小市民の日常はどこまでいっても別世界にはつながっていない。残念なことに。
●小さな港の集落にいるのは海関係の人ばかりで、あとは重機が並び、カモメが悪そうな眼付きで飛んだり歩いたりしているだけだ。海の男たちは長靴を履いてカッパを着てゴム手袋をして正しい漁師の姿で船に乗り込む。架空の組織や怪しい取引先もなく、ただ海の町の生活の中に身を置いている。
●どうもどうもとやってきて、さぞかし楽しんでいるのだろうな、と思うことなかれ。当たり前だけど、世の中楽しくイケイケなことばかりではない。海仕事は想像していたハードさを遥かに超え、妥協や甘えが一切入る余地のないタフネスが必要とされる。今までぼくが経験してきたことなんかままごとみたいなものだな、仔犬の甘噛みじゃないかと錯乱気味に下唇を噛んで、船の上で繰り広げられるルール無用船上やったれやったれデスマッチモードの激しい仕事に身も心もぼろきれのようになっていたりしている。「もやし」や「反物」「すまし汁」なんかに形容されることが多い、やや貧弱かつ淡白にして虚弱体質気味なぼくはこれを乗り越えて、せめてもやしはもやしでも大豆もやしぐらいにはこの仕事が終わる頃にはなってやるぅ!と踏ん張っていたりするのだ。
●そして、毎日船から降りるたびに固く安定した大地に深く深く感謝してありがたみを感じている。足元が安定しているというのはそれだけで素晴らしいことなんだよ、と大企業勤めのサラリーマンが言いそうな臭いことを心の底から思ってしまう。この町に来ることがなければこんなことはきっと思いもしなかったろうなと思うのだけど、思ったところでこれからの人生にそのことがどう生きてくるのかはわからない。が、しかし、人でも建物でもサッカーでもなんでも基礎と足元が大事と言うのだからそれでよしとしようじゃないか。
●憧れていた海仕事はタフでハードで容赦がない。そしてなまりが非常に強い地域なので、ちょっとしたことでも内容がわからず聞き返してしまうことが多々ある。浜のおっかちゃんたちには「語学留学生」なんて言われたりもしているけど、ごはんをどれくらい盛るか聞いて「わんつかぱやっと!」なんて意味の想像もつかないような言葉が当たり前に口から出てくるので、食事中ならともかく仕事中は戸惑ってしまったりする。ちなみに「わんつかぱやっと」と言うのは少なめでいい感じにと言う意味ですね。
●お客さん扱いされて、一日漁師体験のようなふわっといいとこどりのキャピキャピした生活はこっちから願い下げだよなんて思っていたりしたけれど、思った以上に容赦がない。容赦がないったらない。だからといって今ぼくの周りにいる人たちの中に悪い人がいるとはとても思えない。船の上ではいわゆるステレオタイプに誰もが想像するように荒ぶっていた海の男たちが、陸におりた途端、本当にさっきの人と同じ人なのか?と思うような実に屈託なく人間味あふれる顔で優し気に話しかけてくれたりするので、その度にどうも大変な世界に来てしまったとよくわからない顔でジンジンと心が熱くなる。潮風に耳を澄ますと「誰一人子供のままでは生きていけない…」という歌が波の音とともに頭の中で鳴り響く。
●う~ん。どうやら世界は思った以上に広くて深いようだ。明日も容赦のない波とうねりがぼくに現実を叩きつけてくるのだろう。夕暮れの港で、海とカモメと浮浪雲をみながらそんなことを考えている。
[4月22日17:30記]
農業見習い中
白木哲朗のエッセイ百番勝負